2011.3.11 東日本大震災~11年越しの記憶~
2011.3.11 東日本大震災~11年越しの記憶と、宮城県栗原市瀬峰町の皆さまへの感謝を込め、当時のブログを再掲載します。
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急停車とともに、電車は揺れ始めた。
座席から身を乗り出し、手すりをつかんだ。
後から聞けば、3分近く揺れていたのだという。
「電車が転倒するのでは」という不安に駆られながら、揺れは収まる。
2両編成の小さな電車の中、車掌さんが事態の説明に来てくれた。
「かなりの規模の地震だ。再び動き出すにはかなりの時間を要するはずだ」
「なぜ?」
「線路の状態の安全を一つ一つ確認しなければならない。この規模だと途中の線路が陥没している可能性もある。そしていま電気もストップしている。車内の暖房もストップせざるを得ない」
1時間が経過。
この時点ではまだ携帯電話を使用することができた。
車内で地震の規模や震源に関する話し声が響く中、僕自身もネットに接続し、情報を確認した。
そのとき
「どこにいるの?地震大丈夫?北へ行ってはだめよ」
母親からのメールが入る
車掌さんが来た
「これから全員で電車を降りて、歩いてひとつ前の瀬峰駅へむかいます。」
緊急用の梯子のようなものを使って、一人ずつ電車を降りた。
ゆっくりゆっくり、とにかく安全に。お年寄りもいるし、小さな子供もいる。
駅以外の場所で乗客を降ろすということの大変さを、この時初めて知った。
ここから約1時間、乗客全員で、歩いて瀬峰駅を目指した
足の不自由な老人につきっきりで肩を貸している女性が僕の少し前を歩いていた。
「家族なのだろう」
そうではなかった。家族に見えるくらい、彼女は自然に老人に肩を貸していた。
途中の踏切で1台の車が止まっている。乗客の中の一人の女性の旦那さんが車で迎えにきていた。
「もしよかったら、お送りします。」
と言って、彼は足の不自由な老人と、そして同じ方面に帰る、乗れるだけの乗客を車に乗せて踏切を去った。
「ご協力感謝いたします」
JR職員の方が深々と礼をしている。
ちょうど日が沈みきったころ、僕たちは瀬峰駅に着いた。
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瀬峰駅の、というより町全体の明かりは消え、文字通り真っ暗だった。水道の水も出なかった。
何台かのタクシーに乗り合わせ、または家族や友人に連絡を取って、すこしづつみんな帰宅し始めていた。
10数名の旅行者が瀬峰駅に残っていた。
ほどなくしてJRの職員の方や市の職員の方が来て、懐中電灯の明かりを頼りに氏名と住所の記録をとった。
「これから瀬峰公民館に避難します。」
母親からのメールが入っていたことを思い出す。
「今、宮城。これからみんなで公民館に行くよ。とりあえず、大丈夫だから。電気が来ていないから、携帯の充電ができないと思う。とりあえずいったん電源を切るけど、心配しないで。」
あわせてtwitterを見る。文面から察するに四国や岡山に被害はなさそうだが…。
公民館には1台の石油ストーブ。
雪は雨に変わっていた。
公民館の中はとても寒くて、僕らは公民館の中にあった座布団を敷き詰めて、さらに座布団を抱きかかえるようにして、寒さをしのいでいた。
「もっとみんな近くに集まりませんか?人が近くにいると温かくなりますよ」
さっき老人に肩を貸していた彼女がみんなに呼びかけた。
寒さは変わらなかったけれど、それをきっかけにみんながすこし打ち解ける。
孤独感がなくなった。
「もう少しの辛抱ですから・・。」
市の職員の方がお湯を持ってきてくれた。
近くのスーパーが営業していることを聞いて、何人かが代表して人数分のカップラーメンを購入してきた。
かなりの揺れを伴う余震が続いていたが、温かい食べ物にありつけて少しというかようやく、ほっとする。
「新幹線が横転しているらしい。
海沿いの津波がひどいらしい。」
ラジオから流れる、この時点ではまだ不確実な情報を聞きながら、だれからともなく、
「私たちはケガもなく安全に避難できて、不幸中の幸いですよね。」
僕たちはみんな同意した。
「みんな、男性の方とか、足りてますか?作ってきたお弁当があるから、よかったら食べて」
と、ある女性はみんなに自分のお弁当を回してくれた。
「遅くなって申し訳ない。赤十字さんから、毛布とカイロが届きましたよ。」
余震は続いていた。そもそもこんなにも揺れる余震なんてあるのか?この建物大丈夫か?
揺れが来るたびにみんな起き上がる。
まだ23時前。部屋の中は静かだけれど、眠れない人のほうが多いようだ。
ラジオは交通機関の運転見合わせを伝え続けていた。同じ情報を、繰り返し伝え続けていた。
ラジオのアナウンサーの方はニュースを読み上げるのをやめて、語りかけた。
「今、多くの人が不安な夜を過ごしていることと思います。
日本のいたるところで、多くの人があなたと同じように不安の中にいます。
何とかして、温かくしてください。タオルや新聞紙、使えるものはなんでも使いましょう。
あと、7時間の辛抱です。あと7時間辛抱すれば、朝が来ます。太陽が昇ります。
どうかほんの少しの思いやりを、忘れないでください。
あなたの近くに、小さな子供がいるかもしれません。
怖いとき、そして暗い部屋の中で、子供は声をあげて泣くものなのです。
肩を寄せ合って、ともにこの夜を乗り越えましょう。
みなさん、頑張りましょう。
すでにいろんなことが動き始めています。
待っていてください。
明日は晴れです。温かい日差しが降り注ぐことでしょう。」
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朝日が昇った。
眠ったのは数時間だったが、長い夜だった。
朝になり、ともに公民館に避難してきたみんなの顔を、ようやくはっきりとみることができて、少しうれしくなる。
「これからもっと大きな保健センターへ移動します。・・・その前に朝食ですね。」
パンかなにかと、カロリーメイト、野菜生活などが届けられていた。
3台の車に、詰めるだけの毛布を詰めて、僕たちは保健センターに移動した。
別室では地元の方も避難しに来ているようだった。
石油ストーブが運び込まれ、火がともされる。
「おそらく、1週間は交通機関の利用は無理だろう。」
新しく入った情報がそれだった。
みんなの中で一番明るい彼女の提案で、僕らは自己紹介をした。
少しずつ、笑顔がこぼれ始めた。
全員、一人旅のさなかだった。
昼食が用意された。コンビニでよく売っている、グリルチキン入りのミートソースパスタだった。
そして温かいお味噌汁。
地元の方が用意してくれた。
こんなにしっかりした食事を提供していただけるなんて思っても見なくて、僕たちは感激して、そしてコンビニのパスタはチンしないとカチカチのままで、どうしようか考えて、少しお湯をいれて溶かしながら食べた。
女性は後片付けを手伝いに行き、残った僕らは新聞を回し読みしていた。
新聞は4ページほどしかなく、ほとんどが写真で埋められていた。
ようやくこの地震の規模を知った。
そして、お昼を過ぎ、みんなで眠った。
ぐっすりと。
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僕たちが瀬峰町についてから3日目、少しずつ僕らも外に出て行動するようになっていた。
近くのスーパーも懐中電灯と電卓で営業を続けていた。
驚いたのは3日目になっても食料品などがちゃんと買えたことだ。
さすがに在庫は減ってきてはいたけれど。
携帯の電波は入らなくなっていた。
表示が「圏外」になると、電池の消費が早くなると聞いて(携帯が電波を探そうとするため)、相変わらず電源はオフにしていた。
時折幸運にも電波が入り、家族と連絡を取ることに成功する人もいて、僕らの中からも少しずつ家路につく人も出てきた。
15~6名いた僕らも8人になった。
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朝9時と夕方4時の2回、僕らは病院の公衆電話を試し(結局つながらなかった)唯一移っているテレビを見た。
特に何が変わるわけでもないが、じっとしているだけなのも疲れるものだ。
残った8人の中の男3人でこの日は町を歩いた。
偶然市の職員の方に会い、僕らの中の年長者が、僕らが家族への安否確認が取れていないことを伝えると、その日の夕方に市長さんが保健センターを訪れ、緊急用の電話で家族に連絡してくれることになった。
一安心だ。
新潟からの上越新幹線が動いているということを知って、もしかして帰れるんじゃないかと、僕らはそんな気がしていた。
宮城県栗原市瀬峰町から仙台市へ、そこから山形を経由して新潟で上越新幹線。
このルートで帰るしか方法はないようだった。
いくつかの問題点、
仙台までどうやっていくのか、ガソリンが供給されないため、車で仙台へ行くのは難しい。
臨時バスが運航しているらしいという情報から、そこまで歩いていくという案もあった。
それでも仙台へ行けば何とかなると僕たちは思い始めていて、明日臨時バスのところまで歩こうというムードが高まっていた。
しかし、
もし運よく仙台についたとして、その仙台の現在の状況は僕たちに情報として入ってこなかった。
いまだにライフラインは止まったままだからだ。
偶然3時間歩いて瀬峰の保健センターに来た県の職員の方が言うには、この避難所の環境はほかに比べて群を抜いてよく、他ではこうはいかないはずだ、と。
ニュースや新聞で取り上げられているあの環境のなかへ行くのか?
山形にたどりつける保証もなければ、山形から新潟へ移動する手段があるという保証もない。
ここは田舎だからこんなに平和なんだ。
ここにいる限りは安全だし食料もある。
どうしても行くのなら、自己判断に任せるしかない。
自分の体力や覚悟と相談しなさい。
それでも行こう、なんて、だれも言えなかった。
みんなの先頭に立って仙台行きを主張してくれた、僕らの中で一番元気な彼女は泣いていた。
「軽はずみな発言をしてごめんなさい。行くのは、やめましょう。」と。
この人は強い。
心からそう思った。
僕たちの中の一人は、仙台までゆけば親戚に会えるため、県の職員の方と歩いて仙台方面に向かうことを決めていた。
僕らは明日ではない。それでも、動き出すべき日が近いことを感じていた。
「みんなで、メルアド交換しませんか??」
強い彼女が言った。
「いつかまた会いましょうよ」と。
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朝食の後で、避難しているみんなで保健センターの掃除をすることになった。
ずっと食事や寝床の面倒を見ていただくばかりで、何もできないことへの歯がゆさもあったし、仕事ができてうれしかった。
廊下のモップ掛けをしていると、
「Mと申します。ここにAというものはおりますか?」と男性が訪ねてきた。
元気なあの彼女のお父さんだった。
彼女は仙台の少し手前の町に住んでいるらしく、昨日の連絡をきいてお父さんが車で迎えに来てくれたようだ。
「よかったですね!やっと帰れるんですね!!」
「仙台へ、一緒に出発しませんか?父が、送ってくれるそうです。ガソリンの関係で、仙台までは無理だけれど、東仙台まで行けば臨時バスもあるっていうし・・。」
なぜこんなにも彼女が出発することを進めてくれたのかというと、ガソリン不足で、この先車で移動できるチャンスがいつになるかわからないからなのだ。
一か八か、彼女の強い勧めに勇気をもらって、僕は出発することにした。
ともに保健センターで生活していたもう1人のメンバーとともに、出発することに決めた。
その方の行先は富山。
僕はとりあえず大阪まで着けば何とかなる。
「がんばってね。こんなものくらいしかないけれど・・。」
と言って、保健センターの方が缶ジュースをくれた。
「きっとこの判断で間違ってないよ」
「新聞、持っていきなさい」
「いつか、また遊びにきてね。宮城はいいところなのよ」
「はい、必ず!お世話に、なりました!」
そして、ともに過ごした仲間たちに、お別れと握手を交わした。
8人のメンバーのうち、4人が一気に出発することになった。
元気な彼女のお父さんの車に乗り込んで、いよいよ瀬峰の保健センターを出発した。
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「ここまでで充分ですから、帰れなくなりますよ」
「一度君たちを乗せたんだ、付き合えるところまでは付き合うよ。」
ガソリンの残量はほぼゼロになりかけていた。帰り道もさることながら、これからの暮らしのこともある。
それでも彼女のお父さんは東仙台のバス乗り場まで僕らを乗せてくれた。
バス乗り場に、仙台行きの臨時バスが到着していた。
不定期便だ。次がいつかなんてわからない。
車に戻ってお父さんにお礼を言う間もなく、バスのところまで来てくれた彼女にあわただしい別れの挨拶と握手をして、バスに飛び乗った。
今僕がこうして香川県高松市で暮らせているのは、宮城県栗原市瀬峰町の皆さん、JRさんや赤十字社さん、あの元気な彼女をはじめとする仲間たちのおかげです。改めてお礼を申し上げます。
そして、ともに出発したYさんとともに、僕らは今度は西を目指した。
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仙台の町はすでにライフラインが復旧していた。
それでもガソリンスタンドは一般には解放されていなかったし、コンビニにも長蛇の列ができていた。
県庁で電話を借りることができ、久しぶりに実家に電話することができた。
いまだ携帯の電波は心もとなかったが、街中では携帯電話充電サービスも行われており、ひさしぶりに携帯電話を開いた。
「大丈夫だ」
「ありがとう」
ゆっくりと充電をしている時間はない。
メールと着信履歴を確認し、すぐにその場所を離れた。案の定、またすぐに電池が切れてしまった。
運よく僕たちは臨時バスを乗り継いで、夜には新潟行きの特急に乗ることができた。
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新潟に到着したのは上越新幹線の最終にギリギリで間に合うくらいの時間だったが、富山に行くためには、上越新幹線に乗ると逆に遠回りになるためこの日は新潟で泊まることにした。
12時間以上、移動し、歩き続けていた。
疲れていた。
ホテルはどこもいっぱいだったが、運よく2部屋確保できた。
この日は久しぶりにお刺身などをいただき、ビールを味わった。
食事がおわると明日の待ち合わせ時刻を決め、解散した。
僕は少し新潟の町を歩くことにした。
疲れていたが、歩きたかった。
気軽に入れる感じの居酒屋さんに入り、ようやく腰を落ち着けていろんな人にメールと電話をした。
戻ってきたんだな。
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朝8時からホテルで朝食をとる。
昨日は本当に久しぶりに風呂にも入れたし、携帯電話で友達と電話することもできた。
お酒も飲んだ。
そして今、温かい朝食を食べることができる環境にいる。
昨日とは全く違う生活。
難しいことは考えないことにした。
目の前にあるすべてがありがたくて仕方がなかった。
「いただきます」と、僕ら2人は手を合わせた。
Yさんが昨日のうちに青春18きっぷで富山へ行くためのダイヤを調べておいてくれたので、乗り継ぎもスムーズに、昼の2時を回るころには富山駅に到着することができた。
富山駅ではYさんの家族が迎えに来てくれていた。
Yさんの旅が終わる瞬間だった。
そして僕は再び1人で、今度は親戚のいる大阪を目指した。
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目が覚めたのは午前10時を過ぎてからだった。
祖母はお弁当を作ってくれて、最寄りのバス停まで一緒に歩いてくれた。
「雪も降ってるし、寒いから見送りなんてしなくていいよ」
以前だったら絶対こういっていたはずだ。
でも、僕はその祖母の優しさに素直に甘えてみることにしてその5分ほどの道中を、何を話すでもなかったが、楽しんだ。
「お母さんが首を長くして帰りを待っているのだから、寄り道しないように」
「迷ったら、だれかに訪ねなさいよ」
大丈夫だよ、僕も結構いい年なんですよ
大阪駅を出発し、神戸、三ノ宮・・・
同じルートを通るのはこの旅においてこれがはじめて。
出発した日の風景を、逆の方向へ向かっていま進んでいる。
旅の友として連れてきた小説を開く。
結局気分が乗らなくて、すぐに本を閉じてしまった。
外の景色。
凛とした東北のそれとは違い、春へと向かう、穏やかな西日本の景色だった。
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電車を降りて、改札を抜けた。
倉敷駅の改札を。
どうしてもコーヒーが飲みたくなって、100円でハンバーガーが食べられる、だれもが知っている店に入る。
駅を出た。
大学生だろうか、募金箱を抱えた数人の男女が懸命に協力を呼び掛けている。
うれしくて、うれしくて、そしてあの場所でお世話になった皆さんの顔が次々に浮かんでくる。
「お世話になりました。このご恩は一生忘れません。」
実家まで、タクシーで10分足らず、歩いて30分。
こんな時くらいタクシーでもいいんじゃないかという気もしたが、こんな日だからこそ歩くことにした。
「おかえり」
「ただいま」
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母親が家族そろって外食をするといってきかないので、僕らは久々に4人そろって外食をした(父親は単身赴任のため不在)
ほとんど酒の飲めない弟が梅酒のロックに挑戦して顔を真っ赤にしている。
もう一日泊まればよいと母親は言っていたが、別段実家で何かやることがあるわけでもなかった。
茶屋町駅で、もう何度乗ったかわからないあの電車を待った。
北海道には、行けなかった。
予定していた、気ままな卒業旅行とはずいぶん違うものになった。
でも、生きていれば、いつか必ずまた行ける。
僕を生かしてくれたのは誰ですか?
僕を生かしてくれたその人は、今どこにいますか?
マリンライナーが到着する。
思っていたより空いている。
また、窓側の席に座って外の景色を眺める。
見慣れた風景ばかりだ。
瀬戸大橋に入る前に、友人にメールした。
「django、オープンしてる??」
ありがとうございました。
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