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反動期の高校演劇 4

反動期の高校演劇〜「らしさ」をつくるために〜

⒋「らしく」の道徳と「会議の精神」

    政治学者の丸山真男は、「らしさ」を重視するのは近代以前の社会、民主主義や討議の精神、科学研究や人権観念等の未発達な社会の特徴だとしている(『日本の思想』)

    こういう社会(徳川時代のような社会)では、権力関係にもモラルにも、一般的なものの考え方のうえでも、何をするかということよりも、何であるかということが価値判断の重要な基準となるわけです。(中略)こういう社会では、人々の集まりで相互に何者であるかが判明していれば(中略)べつだん討議の手続きやルールを作らなくても、また「会議の精神」を養わなくても、「らしく」の道徳に従って話し合いはおのずから軌道に乗るわけなのです。
    言い換えるならば、赤の他人の間のモラルというものは、ここではあまり発達しないし、発達する必要もない。いわゆる公共道徳、パブリックな道徳といわれているものは、この赤の他人どうしの道徳のことです。(「である」ことと「する」こと    ※原文傍点を太字で表記)

    つまり、(A)「らしく」の道徳と(B)公共道徳(会議の精神)とが、その組織や集団の中でどれぐらいの割合で浸透しているかによってその集団の価値観や立ち位置が分かるということになる。当然ながら、(A)の割合が多いほど、問答無用、人権軽視、上意下達で、「らしさ」の枠に多様な個人を押し込もうとする近代以前の封建遺制を色濃く残した社会ということになる。

    丸山の鼻持ちならないエリート主義に辟易するのは分かるが、それでも、ここで述べられた(B)「会議の精神」を我がものとする努力を、我々は何度でも再開しなければならない。それは組織名称に「協議」の名を含んだ「高等学校演劇協議会」という組織に所属する人間が一層心がけねばならぬものだと思われる。舞台の上や作品内部で立派なことを言うのは簡単だが、自らの生の現場でそれを貫く人間の、いかに少ないことか。我々の「協議」や「会議」は果たしてその名に値するのか。それとも、身内で空気を読みまくってそれらを腐らせ、「会議」と言えば「小田原評定」しか想像できない前近代人へと、嬉々として回帰するのか。

    いや、それは前近代人に失礼かもしれない。民俗学者の宮本常一が『忘れられた日本人』で報告したように、何日にもわたる寄合によって物事を決める村も日本の民俗世界には存在したのだから。そして、アメリカ合州国のデモクラシーが、ネイティブ・アメリカンの衆議から決定的に影響を受けたように、民主主義とは、西洋からの輸入品ではなく、旧石器時代に由来する人類普遍の文化であり、我々はそれを現代に、異なった形で取り戻さなければならないのかもしれない。( 5に続く )

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