#28 退屈とアート

「退屈」というのは、生物としてみるとすごくイレギュラーな状態だと思います。

退屈のあまり、「生きてる理由」なんてのをごちゃごちゃと考えてしまうのも、たぶん人間だけです。(むしろ私だけ?笑)

一方で、現代に生きる人々の行動原理はだいたいこの「退屈」から生じてるんじゃないかとも思います。

退屈だからテレビや映画を観るし、退屈だから飲み会にいき、人と会い、退屈だから旅行にいったり仕事をしたりします。

退屈とどう付き合うかで人生の質が決まるともいえるのではないでしょうか。

だけど、ここで疑問が生じます。

「なぜみんな退屈なんだ?」

答えはおそらくシンプルで、生きることに対する労力が限りなく下がっているからですね。

少なくとも日本においては、ご飯を食べて命を保つために、24時間神経を集中させ続けることなんて必要ありません。

しかし、野生動物からしたら、退屈なんてありえません。

外敵から身を守り、食料を確保し、ひとつの判断ミスが「死」に直結する状況下では退屈なんて生じえません。

生きることそのものが手段でもあり、目的でもあるのが生物だとすると、この退屈という感情は本来生じるはずのない「イレギュラー」な存在です。

おそらく原始人たちは他の動物よりちょっとだけ頭が良かったので、罠を作って効率的に獲物を捕まえる工夫をしました。

そうすると、朝から晩まで狩り出る必要もなく、夜の時間に余白が生じました。

しかし、遺伝子には本来、そんな余白はプログラムされていません。

想定していない身体、精神状態の均衡を保つために、本能が働き、「余白を埋めなきゃ」という思考に至ったのではないでしょうか。

そして人々は初めて、音楽を奏でたり、絵を描いたり、物語を作ったり、生きることには必要ない「アート」を生み出したのではないでしょうか。

生み出すアートが洗練されていくほど、脳も進化し、生きるための技術も発達する。

そうしてさらに生じた余白を埋めるために、人はまた歌をうたう。

「退屈」が人間を進化させ、それによりまた「退屈」が生まれる、、、、という果てしないサイクルを繰り返してきた先に今の私たちがあるのではないでしょうか。

何やら壮大な話になってきましたが、要するに、何かを作ったり、挑戦したりする動機が「退屈だから」というのは至極真っ当なことなんじゃないの?という話です。

結論まですこぶる遠回りしました。笑

退屈を埋めるために歌をうたってもよいのです。

今日も読んでくれてありがとうございます。
退屈の潰し方が「消費」じゃなくて「生産」の方が、人間っぽいよなぁ。








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