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【母が残した家計簿】⑤ 借金地獄の正体、頼母子講?!


昭和〜令和を生き抜いた母が
65年間書き溜めた

【日記付き家計簿】

を元にしながら
ファミリーヒストリーをたどって行きます。


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昭和34年の家計簿を覗いてみます。

1959年昭和34年は、4月にNollyは1歳の誕生日を迎えます。
家計簿は、一旦前年の10月で終わっていましたが、この年のまた3月末から再開されています。
 

一見同じような家計簿ですが、それまでと雰囲気が違います。

まず父が家長となり、同居する家族の構成が変わりました。
それまで家長だった2番目の兄は、個人的な借金の返済や家族をしっかり養うための収入のメドを立ててから、実家から引っ越して別所帯で暮らすことになりました。

僧侶としての仕事は続けるものの、当面の暮らしの立て直しに、この叔父も副業をしながら奮闘することになりました。

同居していた父の二人の妹のうち、一人は嫁ぎました。


3月に家計簿を再開する時には、両親と1歳のNolly、祖父母、もう一人の父の妹、そして15歳になった亡き長男の一人娘。

皆で7人になりました。
この構成で新たなスタートを切っています。


家計簿は、それまでは、備忘録よりちょっとましな程度のとりあえずその日の出費を細かく記録したものでしたが、
その様子は、自分達夫婦の個人的なものから、家を管理するものへと意味合いが変わっています。


良く言えば、夢を持った返済計画とその実施記録のようでもあります。


綿密な計画は確実に遂行されなければなりませんでした。


ひと月の生活費の予算を組んで、月末には父がチェックを入れています。

借金を返済しながら生活費を捻出し生活を立て直すには、色々と話し合って、知恵を絞ったようです。
しかしその前提として、まずは家族が協力をすることが条件だと父は皆に切り出したと言うことでした。
(父の給料は担保に入っているので、同居中の父の妹と母と二人で内職を開始する。
祖父母がもらっていた戦死していた長男の遺族年金も収入として計画に入れていました。)


父は当時県立病院に出向していた地方公務員でした。その頃の手取り給料は、12000円程
だったようです。
端数は予備費として蓄えて、家族7人、
毎月きっかり10,000円の予算で
スタートしています。


副収入は

  • むしろ作り…月5000円

母と父の妹二人の内職で、ひと月に平均5000円程度になっていました。


戦死した長男の遺族年は、父母の煙草やお酒などのし好品や小遣いと長男の娘の養育費
にあてられていました。



家計簿の中でひときわ大きな固定出費があります。


頼母子講でした。



講習会の講という文字なので、貧乏なのに何かの講習会で勉強しているのかと思っていましたが、母に聞くと、とんでもない借金地獄の塊でした。


残っていた借金の正体はコレなのか、と私は思いました。
それまで曖昧だった負債とか担保というその内訳が、この家計簿に残っていました。


父の実家は3つの頼母子講にはいっていて、

  • 荒開講2450円

  • 永田講2000円

  • 林講1000円


計5450円

頼母子講については、私もよく分かりませんが、母が言うには、
毎月掛け金を集めて、貸す側のお金のある人は利子が入って儲かるが、
貧乏で頼母子講を利用して借金した人達は利子を返すために永遠と返済が続いていく仕組みだと言っていました。


この頼母子講は、私の両親が加入したものではなく、以前から膨れ上がっているこの父の実家の借金の正体でした。

三つの頼母子講から借金をするのは、とうに返済能力の限度額は超えていたそうで、本来なら入れないそうですが、遠方の頼母子講にいってまで借金をしていたそうです。
利子を返すために借金をしている状況だったようです。


頼母子講には月5450円の返済。
四年間で完済しています。


トータル261,600円。 


当時の200万円が現在の4000~5000万円と換算するなら、
現在では450万円程度では無かったかと思われます。


家計簿には他にも今までになかった項目が加わっていました。




日ぬきという項目で…毎日10円出費があります。

日ぬき…10円


これは、その頃主婦は小遣いなんて堂々ともらえなかったので、婦人会の活動費のような名
目で、毎日当番が10円もらいに来て、貯金をするという仕組みだったそうです。

夫に内緒でへそくりをためるようなものだったと母は笑っていました。

母はNollyを祖母に預けて、父の妹と二人で一日中内職をしたようです。
むしろうち。ムシロを編む機会でハタを織る様につくっていきます。
時代劇でよくゴザのようなものの上に下手人が座っていますが、あれが藁で織ったむしろです。

農家ではそれを二つに曲げて両端を縄で閉じて袋状にして使います。
その中にコメやイモなどの作物を入れて出荷したり保存したりするものとして使われ、需要がありました。

11月に一緒にムシロを織って頑張っていた義理の妹がお嫁にいきました。
母一人ではやっていけないので、それからはむしろは諦めて、ムシロを織るための縄を作って一人で内職していたようです。

食事の栄養価も考えているようです。
50円程度の魚の文字が2~3日に1度あります。
3月28日にひよこ10羽を1800円で買って
その飼料も40円。

  • ひよこ10羽…1800円

  • 飼料…40円

ヒヨコが育って卵を産むには5か月くらいかかるそうです。
半年後に一日10個の卵を夢見ていたと思います。

大工だった祖父が鶏小屋を建てています。
しばらくすれば、もう卵も食べ放題です。
栄養失調の心配なんて消えて無くなる、そんな夢のような計画でした。

BHC 100円と言うのも記録があります。

  • BHC…100円


これは、田舎育ちの子供の私には耳なれた殺虫剤の名前です。安価で強力な殺虫性があるため、日本で多く使用されました。

しかし有機塩素系の農薬で、残留性があるために1971年(昭和46年)には生産中止とな
りました。
水俣病の有機水銀についても、この年朝日新聞がスクープし、その後公害病として注目を集めるようになりました。



この1959年昭和34年という年、皇太子美智子妃殿下の結婚の儀が行われました。


「世紀のパレード」はテレビ中継されました。

庶民にはまだテレビは高嶺の花で、父の実家にはテレビはありませんでした。ご成婚の記念の銅メダルは商店街の布団屋で購入しています。
明るい兆しがみえて、いいことにはあやかりたい。そんな気分だったのでしょう。
日本中がお祝いムード一色の年だったようです。

この続きは次回と言うことで…


Nolly

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