見出し画像

貴殿、完璧的究極的、象徴♩



YMO
約50年前の曲なのに今より未来の音楽を聴いているような気がして、楽しく美しい。
坂本龍一は白髪のイケオジ音楽家くらいに思っていたけれど、本当に凄い人だったんだな〜…
特にTong poo(東風)は、ノイローゼになるまで聴きたいと思わされる程に今、聴き狂っている。
俺の心にいる言い切る男も、どんな流行りの音楽よりも魅力的と言っています。

今思えば、子どもの頃はYMOライクな音楽が、街で、テレビで、流れていたような気がする。
世界を一世風靡しただけに、国内でも多くの音楽家が憧れてマネをしようとまで思える存在だったのだと思う。

なぜ、自分の耳に馴染み、狂えるほど心地良く聴こえるのだろうか?

音楽理論等には明るくないけれど、おそらく生理的に受け入れやすいからだろう。

流行りの音楽でも、声色・歌い方が苦手であまり聴けないなぁ…という経験は誰にでもあると思う。

例えば、アニメやドラマ、MV等の映像。
好きなアーティスト、歌詞、曲、カッコイイ(カワイイ)映像、好きなエピソードとリンクしてお気に入り、だったり思い入れがあって、人生で幾度と繰り返し見た映像も、誰にでもあると思う。

それは、今流行りの『言語化』されなくてもいいくらい、自分の感覚として、生理的反応で受け入れやすいのだと思う。
もはや、それを強いられているとさえ言えるかもしれない。
人間が受動的になれるコンテンツであればあるほど、人間が気持ち良くなれるのではないか?

「そもそも『生まれる』という事象から人間は受動的な生命体である」と青森(恐山)のお坊さんの記事で読んだことがあり、ハッとさせられた経験とリンクして、今はそう思ってしまう。

オタクの語録で、アイドル等のビジュアルや、映像、音楽を「浴びたい」という言葉があったり、一般的なところでも「浸りたい・酔いたい」といった言葉が使われるけれど、それらの欲求は主体的なようで受動的である。
むしろ主体的に行ったことで「なんか違うな…」という経験もあるだろう。

「究極の人間の行動は受動的」と思ってしまうほど、脳みそが受動的でいっぱいになっている。

最近、やたらと人の営みが受動的であるかを結び付ける作業をさせられて苦しい。
心も、文体も、そちらへ志向してしまうので脱却したい。
主体的な行動を「強いられている」

ハッ!!!!


たすけてくださーーーーーーい!!!!!!!!!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?