24話「桜」所感とチョロ松推しの戯言

※この文章は、前半が24話の感想、後半がチョロ松推しの戯言です。
前半には、「グレイテスト・ショーマン」のネタバレも含みますのでお気を付け下さい。自分でも意味がわかりません。
後半は特に感情の赴くままに書いたので、こじらせたチョロ松推しに理解のある方のみお読みください。

1. 24話「桜」所感

おそ松さん第24話「桜」を見た。

最初に見た時のチョロ松推しとしての叫びはひとまず置いておくとして、一期24話「手紙」とは明らかに違った物語だと感じた。

松造が倒れたことをきっかけに、少しずつ家事手伝いをするようになり、バイトを始める者、ハローワークに通う者、資格の勉強を始める者と、少しずつ自立に向けた一歩を踏み出し始める。

「手紙」の時と全く違っていると感じたのは、この物語があまりにも「普通」に描かれていくという点である。

「手紙」では、冒頭から夕日の中で手紙を書くチョロ松のモノローグから始まり、就職おめでとうパーティーという非日常から物語がスタートする。
しかし「桜」の冒頭は、いつも通りの音楽、いつも通りの午後、いつも通りの釣りから始まる。松造が倒れたことは大事件だが、その時に末弟の電話から聞こえたであろう松代の焦燥した声も、病院内の機械音も、私達には聞こえてこない。
そのまま松造の病状は安定し、ビールを飲みたいなんていう軽い笑いも入りながら、6つ子は至って普通に土手で会話し、決心を固める。
「手紙」のように兄弟がすれ違うといった描写はまったくない。ちゃんとしよう、と決心した時の6人の表情はみな晴れ晴れとしており、その後の日々も忙しそうではあるものの、充実しているように見える。彼らは至ってまっとうに、普通の幸せを手に入れようとしている。
彼らのうち誰かが家を出ることもなく、それぞれが松野家で日々を過ごしている。けれど全員で食卓を囲むこともなく、全員で銭湯に行くこともなく、少しずつ、兄弟のことを知らない時間が増えていく。

徹底的に「おそ松さん」そのままの世界の中で、いつも通りの生活の中で、少しずつ変化が起こって行く。その描写があまりにも、現実そのものだと感じた。それがなによりも恐ろしかった。

彼らは何かにゆっくりと押し流されて、変わっていく。それが何によってなのかははっきりとはわからない。親の病気、でもあるだろうし、世間体、でもあるだろう。そうした「現実」そのものに、抵抗するわけでもなく、じわじわと侵食されていく6つ子を見るのが、たまらなく辛かった。

おそらく今回の24話には、色々な印象を受けた人がいたと思う。私は、「手紙」のような悲劇的な物語以上に、「桜」から身につまされる悲しさを感じた。

突然話は変わるが、私は24話ショック後にも人間としての生活を送るべく、「グレイテスト・ショーマン」を24話視聴後すぐに観に行った。ミュージカル映画の圧倒的な力に飲み込まれれば、24話のダメージも多少中和されるだろうと考えたのである(正直ただ見たかっただけです)。
歌に乗せて超高速で物語られる主人公の半生、恋愛、結婚。最初は事業に失敗するものの、持ち前の行動力でサーカスを立ち上げ、超高速アメリカンドリーム。いろいろあってサーカス小屋が火事になり、破産し、スキャンダルを報じられ、全てを失った彼に残された友情・愛。家族の元へと彼は疾走する——。
(いや、こんな風に書くとあれですが、本当に良い作品です。音楽の力と映像美。まさにエンターテイメントでした。)
しかし、この作品を見ている途中から、彼らのことを思い出してしまったのである。本当に両作品に失礼なので、この作戦は今後やめたほうがいいということを学んだ。3期の24話ではもうやりません。
火事、破産、スキャンダル。目に見える成功と転落。そんなものとは無縁の世界で、彼らの変化はじわじわと進行する。それが彼らの生きる現実なのだ。そう考えると、なんだか泣けてきてしまった。

何かをなんとなく諦めて、少しずつ受け入れて、忘れていく。そんな行為が世界を確実に変えてしまうし、終わらせてしまうのだ、と最近とみに思う。
もうやめる!と言って、突然何かを諦める人なんて、実は少ないのではないだろうか。多くの人が、世間体と義務感に押し流されて、少しずつ、変わって行って、いつの間にか夢や目標や色々なものを忘れていく。誰かにふわっと忘れられた夢が、そこらじゅうに転がっている。そう感じることが多い。
だからこそ、「桜」の中であまりにも普通に過ぎていく時間が、哀しかった。
「グレイテスト・ショーマン」とは比較にならないが、「手紙」は劇的な物語であったように思う。初めて目にする兄弟の激しい喧嘩、優しいピアノが流れる中での別れ、哀愁漂うギターに乗せて映し出される6つ子の苦難。
「桜」には、そうした描写がほとんどなかったように感じられた。おそ松が夕方から夜までを過ごす間、一切音楽は流れない。夕暮れ時の街の音、人々の行き交う足音、日々の中に存在する音だけが聞こえてくる。
彼らの世界には、華やかな舞台も、魔法のような音楽も、存在しない。それが彼らの現実なのだと、つきつけられているようだった。

一つ救いだったのは、おそ松がその違和感をずっと抱えていることだった。ちゃんとするってなんだよ、とか、しょうがないってなに、とか、不器用に、でも考えることを決して諦めていないことが、嬉しかった。そうした違和感を感じること、考えることを諦めてしまった時に、本当の終わりがやって来るのだと思う。
自分で決めたい、という彼の言葉に安心した。あいつらはどう思っているんだろう、という言葉にも安心した。この後の物語を静かに待とう、と思える言葉だった。

2.チョロ松推しの戯言

——このような24話全体の所感を言語化するまでに、チョロ松推しとしての様々な感情の渦巻きがありました。正直今でも渦巻き続けています。
前のエントリーを読めばおわかり頂けると思いますが、私は一期23~24話以来チョロ松への想いをかなりこじらせています。

土手でおそ松が就職・自立の話を切り出した時、まず最初に「それを、チョロ松の前で、言えるの??!!!」と思ってしまいました。
いやもう本当に、これは完全に私の戯言なのですが、チョロ松が就職した時に一言も口を利かなかったことについて、彼らはどこまで記憶があるのだろうか? 今回就職の話を切り出した時、「手紙」の時について一切話題の上らなかったところからすると、もしかすると「手紙」は全て存在しなかったことになっている物語なのだろうか? じゃあチョロ松のあの一連の心の動きは、行動は、なかったことになっているのだろうか?
……という、まあ自分が一番やりたくなかったタイプの考察というか思考をめぐらせて、やり場のない悲しさとやるせなさと空しさに襲われていました。これはギャグアニメ。いくらでもifやパラレルが存在する世界。そんな世界でこんな方向性で一人のキャラクターを推している自分に責任がある。そうです。そう……。

多分まだ自分の中で、彼のライジング(就活アピール、確定申告、松野家電話における面接云々)と、今回のような本当の就職活動について、折り合いがついていないんだと思います。折り合いってなんだろう、つまり、ライジングは彼の持ちネタとして扱われているということに、ちゃんと向き合えていないというか、何言ってるかもうわからないです…。
一人だけずっと「就職」という言葉を自ら発していた存在であり、その上一度は親のコネとはいえサラリーマンとしての生活を送っている。その事実と、今回の全員の円満な自立の中の一例としての彼の行動に、折り合いがつけられていない。私が。そう、全部私の問題です。
だって、彼はそんなことを微塵も気にする様子もなく、ハローワークに励んでいるし、おそ松の背中を笑って叩けてしまう。どういうことなんだ。器が広すぎる。大人だ。あまりにも大人。
大人になってしまった。否、ずっとそうだったのかもしれないけど、「桜」のチョロ松はずっと大人だった。そんな彼に、全く追いつけない。どんどん遠ざかってしまう。勝手に彼の前に広がる道やら夢やらを妄想しては勝手に応援していたエゴの塊のような私は、完全に取り残されてしまった。なんて自己責任なんだ。どこまでも自己責任。

そして同時に、彼が一人だけ何かの職についた描写がない、ということが、引っ掛かりすぎて、どうすればよいのかわからない。
ハローワークに通っている描写は、正社員の職を探しているから、他の5人よりも時間がかかっているのだろうか。でも最後のシーンで彼のまわりに散らばった本やノートは、もしかすると何かの勉強中なんだろうか。彼は勉強ができると勝手に踏んでいる(「トッティクイズ」のルートの問題の時、「ひとなみにおごれよだから...」と呟いていたことを私は覚えている、そんな自分に引いている)から、資格を取ろうとしているのだろうか。

そして、そんなことを考えれば考えるほど、来週が怖い。
25話。今度は桜が燃えてしまうのだろうか。せめてその前に、チョロ松が何かしらの職に就く姿を見せてほしい。否、就職までたどりつかなくてもいい。内定でも、合格でも、なんでもいい。とにかく、彼の頑張りが無駄ではなかったということを、見せてほしい。いや、これは6人全員に言えることです。そうです…。
ここにきて、私は一期の25話がなんだかんだでかなりショックだったんだな、ということがわかった。23~24話の流れの中心にチョロ松がいたからこそ、センバツという謎の不可抗力によって彼の頑張りが無に帰したことを、ずっと引きずっている。だからこそ、今回はもう、なかったことにしないでほしい。

私はチョロ松に成長してほしいだなんて、微塵も思っていないと思い知った。だって既に大人だもの。私が願うのは、彼の努力が少しでも実を結び、「認められたい」という彼の希望が叶うことです。チョロ松がやりたいことをやって、なりたいものになってくれたら、もうそれでいいんです。


追伸 特に2章について同じような気持ちになっている方がいたらぜひ酒を酌み交わしたいのでご一報ください(?)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?