松野チョロ松のこと

1.はじめに――おそ松さんとの出会い

私が最初におそ松さんを見たのは第5話だった。
第1話の時点で話題騒然になっていたのは知っていたが、この第5話に関してはちょっと異常なほどに感想が飛び交っており、普段アニメの話をしないフォロワーさんまでもが話題にしていた。

私がアニメを見ていたのは本当に子どもの頃、子供向けの日本のアニメやカートゥーン系などで、深夜アニメについては全く見たことがなかった。一人っ子で親もアニメに興味がなく、中高生の頃に同級生が話題にしていても協調性がないので特に関心を持つこともなかった。
中高生の頃にアニメにはまらなかったのには、等身が高くかっこいいアニメキャラクターになんとなく違和感を抱いてしまったという理由もある。今見ると何の問題もなく楽しめるので結局は食わず嫌いでしかなかったのだが。
そうしたこともあって、「おそ松さん」の昭和風な絵柄は、幼少期にドラ○もんをひたすら見ていた私にとっては非常になじみ深いものだった。この絵柄だし、面白いみたいだし、話題になってるし、ちょっと見てみようと思い立ったのがきっかけだった。

第5話を見た時は、「なるほど、こういう感じか」という程度の感想で、面白そうだからしばらく見てみることにした。話数を重ねるごとに笑いのツボがはまる回が増え、気づけば毎週月曜日を楽しみにするようになっていた。
特に第7話「トド松と5人の悪魔」では大笑いした。アニメを見てこんなに大笑いしたのは初めてだった。第9話「十四松の恋」では深読みする感想が飛び交うなか、自分もしっかり考察病に罹り、こういう話もするのか、という驚きと共に、ますますこれからの話を楽しみにするようになっていった。

2. 松野チョロ松について

さて、本題の松野チョロ松についてである。
おそ松さんの感想をネット上で見ていると、視聴者それぞれに好きなキャラクター(いわゆる「推し」)がいることがわかってきた。話数を重ねるごとに、自分にもなんとなく「推し」の感覚がわかってきた。
もっとも、最初から彼に注目していたわけではなかった。第5話の時点ではむしろ一松に注目して見ていた節があり、チョロ松に関してはいつもツッコミ大変そう、という程度の認識だった。
彼のことが気になり始めたのは、いつ頃からだったであろうか。第10話「イヤミチビ太のレンタル彼女」で、イヤ代に完膚なきまでに搾取される姿を見たあたりから、なんとなく応援したくなっていたように思う。
彼はツッコミ役という職務を全うしていた第1クールから一転して、第2クールでは様々な部分を深く掘り下げられることになる。
13話に関しては色々な意味で言語化が難しいので割愛するが、今まで「常識人」として扱われていた彼にも、ついに白羽の矢が立ったか、と何だか感慨深かった。
彼のキャラクター造形にとって大きな転換となったのは、第19話「自意識ライジング」ではないだろうか。「常識人」であったはずの彼は、どうやら兄弟の中でもかなり根深いものを持っているのでは、と恐ろしくも感じられた。ダンボールパソコンとダンボールタブレットをいじりながらダンボールケータイで通話する彼の姿を見て、「なんとかなってほしい」という思いを募らせた。

さらに「頼むからなんとかなってくれ」と強く思うようになったのは、第23話「ダヨーン族」だった。

「僕だって本当は……本当は、外の世界で就職して、ちゃんとした人間になりたい。でも、やっぱり無理なんだ。何やっても続かないし、就活アピールばっかで、実際やってることと言えば、部屋でチョロシコスキーな日々」(松野チョロ松ーおそ松さん第23話「ダヨーン族」より)

ダヨーンの世界に入って結婚までしてしまった彼の独白には、胸を打たれた。
ライジングを克服?した彼は、現実世界での自分の駄目っぷりをきちんと理解していた。それでもなお、彼は「ちゃんとした人間になりたい」という願いを持ち続けていた。
そのあまりの純粋さというか、健気さ(逃げてるんだけど)を感じて、私は完全にチョロ松「推し」になっていた。
最後の逃避場所であるかのようにダヨーンの世界で結婚した彼は、その結婚相手本人から現実世界へと追い返される。しかしそれは愛ゆえの行動であり、チョロ松は彼女の想いを受け取り、思い切り泣いてから現実世界への帰路につく。
23話の最後、彼の笑顔はすがすがしいものだった。とにかくいい話だったので、この笑顔にも私は「よかったよかった」としか思っておらず、そのすがすがしさがあの24話へと続いていくとは思ってもいなかった。

「就職しないで!!!」おそらく24話を見て多くの視聴者が口にした感想だと思う。チョロ松を筆頭に次々と独り立ちしていく兄弟たち。そして一人取り残される長男。今まで通り6人一緒に馬鹿なことをし続けていてほしい、という気持ちにさせられる回だった。そして号泣した。25話を見た後ではなぜあんなに感傷的になっていたのかわからないくらいに号泣した。深夜に4回見て、4回ともチョロ松が車で家を出ていくシーンで号泣した。

23話であれほど「なんとかなってくれ」とチョロ松の幸せを願ったにも関わらず、彼が本望であるはずの「ちゃんとした人間」への一歩を踏み出した瞬間、「頼むから元に戻ってくれ」と願ってしまう。
25話を見た時、今まで通り6人で馬鹿をやる六つ子を見て安堵を覚えつつも、「この世界では、チョロ松は本当の意味での「幸せ」を掴むことは出来ないんだな」と感じた。

本当の意味での「幸せ」とは何なのか、大きな話になってしまうが、ここではチョロ松が願う自身の「理想」になること、つまり彼が夢を叶えること、としておきたい。
チョロ松にとって「楽しい」のは、もちろん6人でだらだらと日々を過ごすことだろう。でも、それは本当に「幸せ」なのか?
ちゃんとしなきゃいけない、という義務感だけではなく、チョロ松はそこまで悩んで、考えた上で、「ちゃんとした人間になりたい」と言い続けているのではないだろうか。
勝手な憶測ではあるが、そう思うのは、自分もまた同じように考えることが多いためである。人間は変化を嫌う生き物だし、今の変化のない生活こそが「幸せ」と考えてしまうものだ、と最近どこかで読んだ。けれどそれは現状に甘んじて、本当になりたい自分、目指すものに目を瞑ることでもある。
チョロ松は、そうした現状の生ぬるく楽しい生活を捨ててでも、「なりたい自分」を目指そうとした。少なくとも、23話、24話での彼はそうだった。

でも、この物語は「おそ松さん」である。彼の理想はこの物語の外にあり、彼が理想を貫いた瞬間、世界は崩壊に向かう。
24話が示すように、彼が「ちゃんとした人間」への一歩を踏み出すと共に、物語は終結へと向かってしまう。少し話がそれるかもしれないが、第2期第1話「ふっかつ おそ松さん」での6人の「ちゃんとした」姿は、もはや彼ら自身の姿をとどめていない。彼らが松野家の六つ子である限り、チョロ松の理想は永遠に叶えられない、とでも言うかのような回だった。

私は物語には現実を重ねたくないタイプだ。作品の中では、その物語の美しさを純粋に味わっていたい。現実の教訓や道徳、「こうあるべき」といった強いメッセージ性のある作品は敬遠してきた。
けれど松野チョロ松には、どうしても自分や現実を重ねてしまう。
25話で全てがセンバツに持って行かれた今でも、23~24話の彼は確かに存在した、と思いたい。
なんでもありのおかしな世界の中で、時に流され、時にツッコミながら、どうにか自分の理想を貫こうとしているその姿が、あまりに人間臭く、あまりに愛おしい。

3.おわりに――今この文章を書いたわけ

今日は1月8日月曜日、おそ松さん第14話「チョロ松事変」ほか、が放送される日である。

第2期に入ってから、チョロ松は大きな行動をすることなく、松野家での狂った日々を過ごしている。
第10話「カラ松とブラザー」では何でも引き受けてしまうカラ松に対し「でもお前もヘンだよ」と忠告してちゃんと断るようにアドバイスをするなど、「間違っていることを間違ったままにしない」姿が印象的だった。しかしそれでも、基本的には今まで通り、就職活動もせず、時にライジングしながらぬるま湯のような日々を甘んじて過ごしているように見える。

だからこそ、第14話が怖い。「チョロ松事変」が怖い。チョロ松がフォーカスされた作品はその性質上大体「事変」だったのでは? と思うからこそ、改めて「事変」と題された今回の作品がわからない。ギャグかとも想像したが、制作側のコメントを見る限りでは、なんだかターニングポイントになりそうな話である。怖い。お腹が痛い。

チョロ松にはなんとかなってほしい。これはずっと思っていることで、今でも変わらない。
けれど「おそ松さん」はあくまでもギャグ作品で、そんなことを願う重い「チョロ松推し」になってしまった私は、もはや違う道へと突き進んでしまっているのではないだろうか。
今回この文章を書いたのは、そんな不安をきっかけとして、「チョロ松事変」を前に、改めて自分の松野チョロ松に対する想いを文章に起こしてみようと思い立ったからである。
この文章を書くにあたって、第1期を見直した。チョロ松はやっぱりライジングしていたし、ダヨーンの世界に逃げ込んでいたし、それでも涙を必死でこらえようとしながら家を出た。
私が見たチョロ松は確かにそこに存在した。そして、見当外れの想いかもしれないけど、やっぱり私は彼の幸せを願いたいと感じた。

「チョロ松事変」で何が起こるのかわからないけれど、彼の行く末をちゃんと見守ろうと思う。

追記
14話見ましたがしんどいofしんどいって感じでした 自分の感情に整理をつけてまた何か書きたいけど無理かな〜?!!!

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