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外国語を話すと性格が変わる?

海外での生活にはいろんな不安要素がありますが、言葉の心配は特に大きいのではないでしょうか。

英語圏なら、自分の語学レベルによる差はあっても「まだ何とかなる」と思えるかもしれませんが、英語圏外だと状況はかなり違ってきます。

一般的に「英語が通じる」とか「英語で大丈夫」と言われている非英語圏でも、英語だけで生活し通そうとするのは難しいし、その国を知ろう、馴染もうと本気で思うのであれば、その国の言葉を「知らない、できない」で通すのはお薦めできません。

仮に不十分な語学力でも、学ぼうという意欲を出すだけで、自分の気持ちもだいぶ違いますし、周りの反応も違ってきます。
これは、数週間程度の短期滞在でも、数年に及ぶ長期滞在でも、基本的には変わらないと思っています。

その国の言葉を覚えようとすることは、
どれだけ自分がその国(文化)に前向きに取り組むか

ということだと、私は思ってます。

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ここから先は、非英語圏を前提にして書いていきます。

英語以外の母国語の国でも、片言の英語で意思の疎通はなんとかなるかもしれません。でも、どうしても見えない壁ができてしまう気がするんです。

そこの言葉を「覚えなくてもいい」と思うことは、言い換えると「私はお客さんのままでいい」という意識に繋がる気がします。
お客さんですから、相手は適度に遠慮して、丁寧に対応してくれるかもしれませんが、それは「受け入れてもらう」とは別ですし、その国の人や文化を知るチャンスは確実に減ります。

ところで、言語が思考に与える影響に関しては、Benjamin Lee Whorfなんかの研究が有名ですが、それはそれとして、とても分かり易くまとめてくれているのが「としちる」さんが書かれたこちらの記事です。

海外在住年数で言えば、既に2桁年数の私自身の感想は、
後から学んだ言語によって基本的な思考パターンが変わることはない
です。

としちるさんが書かれているように、

異なる言語を学ぶということは、その言語を用いている「文化」を学ぶということです。

これは同感です。

その文化の中で、その言語で学んだことが、自分の思考パターンに移植されることはある、と私は感じています。
だからといって、それまでの思考パターンがなくなるわけではなくて、共存状態になります。
「上書きして保存」とはなりません。

長く海外にいても、日本語で学んだもの(慣習とか常識みたいなもの)がまず基礎としてあって、外国語で話していても、まずそのベースになる母国語文化圏での思考パターンの延長で捉えてしまうことが多いでしょう。

私は、そうした「常識」のようなものは、特定の文化内での(国に限らず、コミュニティでも)暗黙知だと思っています。

海外で「え?!」となるのは、この暗黙知の外にある思考パターン(と、それを背景とする行動パターン)に遭遇して驚いたり、違和感や反感を覚えたりするところにある、と思います。
逆に、自分の暗黙知外のものを、新しくその言語で覚えれば、それが自分にとっても常識となり、行動もそれに従うわけです。

ただ「行動」となると、そこは自分の性格も関係してくると思います。

例えば、ある国では自分の権利を主張するのが当然と思われていて、自分もそれに同感だし、そうすべきだと思う思考パターンができている(常識として認知されている)とします。
でも、そこで自分が実際に権利の主張をするか、というと、それはまた別の話ですし。(内気な性格だとこれがなかなか・・・)


外国語で性格が変わるのか?

私の答えは「NO」です。

人は一次元的な存在ではなくて、幾重にも層のある複雑な個体です。

ある言語での自分と、別の言語での自分とで、まるで違う人間のような言動になったり、自分でもそう感じることはあるかもしれません。

でも、実際には全てがもともと自分の中にあって、特定の言語、つまりその文化が、それまで眠っていた非アクティブな自分を前面に押し出す、ということは十分に考えられます。

そうすると、内気だった人が活発になったりして「別人」に見えることもあるわけです。

ただ、人は「自分じゃないものにはなれない」と私は思っているので、そういうのは、違う言語で性格が変わったのではなく、単に隠れていた自分が出てくただけのことで、自分はやっぱり「自分」なのです。


外国語を学ぶメリットって?

いずれにせよ、何語であっても、外国語の習得はプラスだと私は思います。
理由としては、

・情報源が増える
・行動範囲が(もしかしたら)広がる
・内省の機会が増え、視野が広がる

この3つがまず浮かびます。

情報源は、ネットでも本でも、情報源の選択肢が増えるのは楽しいし嬉しいものです。

行動範囲は、旅行でも就職の機会でも学業でも、自分の目的に合うものを探せる範囲が広がり、アクションもし易くなると思います。

内省に関しては、自分の常識と違う常識に遭遇したときに「違和感」を感じることで、「これでいいのかな?」、「どうしてそうなるのかな?」といった具合に自分で考える機会が増えます。
(これを繰り返しているうちに、なんとなく「世界は広いなぁ」みたいに思えてくるんですよね)

言語による思考の変化、というのは研究課題としてとても魅力があります。
でも、「変わる」こと自体には正誤も優劣もないし、変わることは目的でもない、と思います。
「変われば変わる」くらいの、ゆるい捉え方で良いのではないでしょうか。

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誤解のないようにちょっと補足です:
私は何か不満があって、日本が嫌で出てきたわけじゃないんです。
背景は「本は魔法(の絨毯)」にちょっと書いてあります。
私は日本も日本人も大好きです。

20年以上の海外生活に終止符を打ち、2020年後半には日本へ帰国します。サポートは皆さんとお会いするときのお茶代として還元させていただきます。