双極性障害に対するリーマス投与の経過

これまで血液検査が必要だということで、ずっと避けてきたリーマスですが、2ヶ月ほど前から服薬を開始しました。それまではドグマチールとデパスでなんとか気持ちの振れ幅を抑えてきたのですが、2ヶ月ほど前に「もう限界」というところまで来て、主治医と相談しての判断です。

リーマスというのは炭酸リチウムが主成分で、120年ほどの歴史がある薬だと伺いました。気分が落ち着くということで「リチウムドリンク」なんかも出回っていて、死者が出ることを不審に感じた学者が調べたところ、重篤な中毒症状があることがわかったそうです。そのため、リーマス服用は血中濃度を常に監視し、中毒症状を起こさないことが大前提となります。

リーマスに変更してから、いわゆる「気分のブレ」はかなり抑えられています。これはこれで、良かったと思っています。それまでは気が狂いそうなほどイライラしたり落ち込んだりがものすごい振れ幅でやってくるので、正気を保つのが大変でした。よく仕事をできていたと思います。

一方で、あらゆる「意欲」というものがなくなってしまい、食欲もないし行動欲もないし、読書や音楽鑑賞ですら「無味乾燥」に思えてしまうようになりました。わたしは子供の頃から音楽が大好きで、暇さえあればピアノ、ギター、ベース、ドラムなど楽器を弾いていたのですが、その意欲もありません。いまは音楽はうるさく感じるし、楽器を弾く動機というか、「なんであんなに熱心に弾いていたんだろう」と思うほど、意欲がありません。

楽器の楽しさは、もちろん弾けることそのものも楽しいのですが、わずかでも上手くなること、弾けなかった曲が弾けるようになること、そういうところに楽しさがあるわけですが、残念ながらそういったすべての「意欲」がなくなってしまいました。

良く言えばリーマスによって「安定」しているわけですが、生きる動機(Eros)とでもいいましょうか、楽しいとか幸せとか、たまには反発心が生きる原動力になるわけですが、そういった心の揺れがほとんどなくなってしまいました。かといって死への憧憬(Thanatos)に溢れているかと言うとそうでもなく、積極的に死を求めるというよりは「生きていたくない」という方が近い気がしています。

小さい頃からやんちゃで悪戯好きで、なにか楽しいことはないかと探したり作り出したりしていたことを考えると、今の状態が「もとに戻った」とは思えないのです。もちろん双極性障害のしんどさからは解放されていますし、強い希死念慮もないのですが、生きる意欲を失ってしまった。そんな人間ではなかったはずなのですが。

では死にたいか?と言われると、わずかばかりでも、生への執着があるようにも思えます。「生きていたくない」と「死にたくない」がせめぎ合っている状態というか。その天秤がどちらかに、死に傾いたときに、あっさり死んでしまうんじゃないかと思います。

双極性障害、リーマス、という要因の他にも、コロナの自粛生活というのもおそらく影響しているとは思っていて、毎日変わらない景色、変わらないルーティン、変わらない仕事、変わらない世界。そんな繰り返しがこれから何十年も続くかと思うだけでげんなりするというか。もう、ここらで終わってもいいんじゃないかと思ってしまいます。

生きていることに意味をもたせるのは、古くギリシャ哲学時代からあるわけですが、どれもこれも「取って付けたような」ものでしかなく、精神論な気がしています。人間が生きる理由、存在しなくては行けない理由などどこにもないし、仮にあったとしても自分は該当しないというか。

スイッチひとつで死ねるなら、とっくに死んでいたと思いますし、いまもそれを願っています。きちんと死ぬにはそれなりの準備が必要で、なかなか面倒で。かといって意欲を失って、まだ仕事があるから良いですが、これで仕事もなくなって、生きる金もなくなったら、いよいよ生きてる意味などない気もしています。

生か死か、天秤が振れる方に、傾く方に、いくんじゃないかと思います。生きている意味なんて、はじめから無いのだと思いますし、死んだらなおのこと、どうでもいいというか。感情をなくした思考するタンパク質の塊が空間を占めているだけで。虚しさというか。

ある程度の感情は残っていないと、それは生命維持なだけで、少なくとも充実した人生のためにはならない気もしていて。リーマスをやめるかどうか、それはまた主治医と相談になると思いますが、ムラのある気分を我慢するのがいいのか、感情のない安定をよしとするのか、突き詰めれば「どういう人生にしたいか」ということでもあると思います。

今日ではないかもしれない。でも終わりの日は近い気もしています。

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