見出し画像

小説家の描く統合失調症

小説家というのはたいしたものだと思う。

そう思わせる作品のひとつに『月のアペニン山』がある。著者の深沢七郎という人に驚かされたのである。

作品はこの文庫本に収録されている。文庫のタイトルになっている「楢山節考」も佳作だ。うちの娘に言わせれば「怖くてまったく救いようがない」。

『月のアペニン山』は「サスペンスの練習」らしい。「練習」なだけあって「ミステリー」にはなっていない。だから「ネタバレ」もないのだが、それでも避けたいという人はこの先は読まずにおいてほしい。

主人公の妻は「静江」という。細い髪の美しい「優しすぎる性格」の女だ。しかし一カ所に住み着くことができない。このあたりですでに「統合失調症」が身近な人には不吉な風にふかれると思う。

鋭いのは「心の病」を得ているのは妻だけなのに、二人そろって「何となく周囲から敵意の眼差し」を感じ、居心地の悪さを共有しているのである。「わかる!」という人は苦労しているのだろう。

一人で留守番をする妻は「近所の人達がつらい」と訴える。主人公はこれを簡単にまにうけている。

それは或る悪魔が私達の生活を訪れたからだった。その悪魔の仕事はいつも私の出勤した留守に亡霊のように訪れていたのだった。

おかしな話だと思われるかもしれない。しかし統合失調症というのはケースによっては「オカルト」と五十歩百歩に思われるものなのだ。このあたりの描写はじつに巧みである。

とはいえ主人公の「私」は「悪魔」を直接には体験しない。周囲からの敵意の眼差しを「感じた」のは決まって静江である。悪魔に襲来されるのは必ず静江である。そのとき「私」は出勤で家を「留守」にしている。それなのに「二人そろって何となく」同じ体験を共有したつもりになっている。

悪魔が襲来する時間も大体きまっていた。そんな馬鹿げたことが、今の世の中にある筈はないと思われるかも知れないが、実際私だって気がつかなかった。

悪魔に襲来されるから引っ越す。三年間で九回の引っ越しを余儀なくされたすえに、ようやく幸運なことに「杉村さん」という隣人に恵まれて落ち着き場所を得る。

しかしこれで話が終わるはずもない。

台風の接近した晩に、不気味なハエの大群が壁や天井をまっ黒に埋めつくした。「台風のあとは、きっと来るんですよ」と「杉村さんの奥さん」がハエ叩きを貸してくれた。

主人公がハエを追い払って、やれやれとなったとき、とつぜん後頭部に強い衝撃を受けた。静江がハエ叩きで「私」の頭を叩いたのだ。

こうしてやっと「私」にも合点がいく。静江は「心を病んでいた」のだ。「全然御存じなかったですか!」と「私」は隣人に驚愕される。「実際私だって気がつかなかった」のは先の引用の通りである。そういうものなのだ。

「私」は一も二もなく離婚を決める。離婚調停の場面で「私」は一年半ぶりに静江の姿を見る。「前は痩せ形の身体つきだったが、今みると女としては肥えすぎる位ふとっているのは意外」だった。

この本が刊行された1964年というのはまだこういう「男女差別」がふつうになされる時代だったのだろう。

顔色も健康そうらしい、和服で羽織を着て背をそらせて腰掛けている恰好は堂々とした貫禄にも見えて、秋山先生を相手に何か話しているが女流評論家が一席ぶっているようでもある。あの気の弱い静江がこんなに変わってしまったのはやはり変である。病気はなおったときいていたが、この様子では普通じゃないのではないか、それとも全快したからこんなに元気になったのであろうか?

その「気味の悪い程の変りよう」を、「私」は「遠い天体を眺めるように、月の光の中のアペニン山脈を見つめるように見る」ことしかできないのだった。