留学で最初に教えてくれた先生は「精神力動」が専門だった

精神力動とはいったい何だ?

サイコ・ダイナミクスが自分の専門よ」

と、アメリカ人的な魅力をいっぱいにたたえた先生は、教えてくれた。後にこの種の「魅力」には、留学中、おおいに警戒するクセがつくことになったが。

いまのようにウィキペディアが教えてくれるわけでもない。「精神力動」なんてサッパリ理解できなかった。意味不明もいいところだった。

フロイトの「リビドー」とは日本では「性欲」とか「衝動」と訳されることが多いが、要するに意味がよくわからないのだ。なんで「性欲」なんだろう。いったいフロイトの言う「性欲」とはどういう意味なんだろう。

留学中にははっきり言って、ついにわからなかったと言っていい。しかし、人生とは不思議なもので、帰国してから私は、「統合失調症」の知人を、それも親しい知人を、こさえることになったのだ。これは、心理学を学んだことと関係はなく。

ネズミのレバー倒しで何もかも説明しにかかる行動科学や、不合理的信念によって「不適切」行為を説明する認知科学や、脳内の神経伝達部室の「不適切な」関係で「精神病」をとらえる認知神経科学(脳科学)では、けっきょくよく「わかられてはいない」ような気が、いまではする。病院に通ってお薬ももらってはいるものの、知人の病気が良くなっているとは思えない。

リビドー、性欲、力動。

統合失調症の人と話をしていると、「性欲」はよくわからないが「力動」はとてもよくわかる。なんというか、思考が「力動的」なのである。つまり、「考え」と言うよりも、いつも「力」なのだ。

たとえば知人はよく「妄想と言われるかもしれないが」と前置きするものの「目に見えない力が」という言い方をしてくる。

最初はもちろん「妄想だ」とこちらは思うが、何度も言われるので、いったん自分の意見を脇に置いてみる。相手の言うとおりだったと仮定する。すると、こういうことが見えてくる。

「見えない力」とは、とても複雑な事情によって感じ取られている「プレッシャー」のようなものなのかもしれない。そのプレッシャーは、けっきょく「考え」によるものとしか言いようがない。

たとえば「社会」には、「いい年をした女性は結婚するか、働くかして、子どもを育てるべきだ」という「考え」がある。かもしれない。そしてそれは、ある種の人ほど、敏感に感じ取ることになる。

「感じられる」というのは、「考え」の発信源が、少なくとも「社会」つまり「自分の外」にあるのだが、「人は人。自分は自分」という「区別」が明確であれば、それほど「気にならない」かもしれない。ただそのためには、「自分の考え」の発信源は「自分の中」にあって、「社会の考え」の発信源は「自分の外」にあると、ある意味では「決めつける」必要がある。

そんなのは当たり前だとわたしたちは思うのだが、「自分のうち」にあるというその「発信源」が「内側だ」という確信は、どうして得られるのだろう?

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