精神分析的なカウンセリングは「原則として」キャンセルできない
最後の「はめられた」に至るいきさつまで読み、その意味をどうにか理解できるようになってみると、人というのは、そして無意識というのは、なんとも狡猾だと感心してしまいます。
精神分析というのはやや特殊な営みで、「設定した構造へのこだわり」ぶりに、一般の読者として類書にまず面食らうものです。
たとえば「毎週月曜日の15時ちょうどから対面法でセッションを行う」と設定を一度決めたら驚くほど融通が利かないようにするのです。
この設定が決まったら、やむを得ない理由でカウンセリングを1分も受けられなかったとしても、全額を支払わなければならないのです。相当の理由があったとしても支払わなければならず、しかも決して安い金額ではありません。
クライアントによってはこの点でひどく納得がいかないのです。「私はいつもB氏に休んだセッションの料金を請求していたが、それは常に論争の的」となってしまっています。
こういう話は精神分析の類書にはひんぱんに登場します。たとえば藤山直樹さんの著書にもこれとそっくりのやりとりが紹介されています。
上の「Bさん」と藤山直樹さんの患者さんには奇妙に共通した感じがあります。
セドラック氏のBさんは、精神分析家がどれほど「客観的にみておかしい」かを、自らの母親の死を「利用して」でも明らかにしてやりたいといった執念をもっていたようです。
おそらくその無意識と自意識の総力を挙げたプロジェクトが功を奏し、セドラック氏は「はめられる」ワケです。
これを「特別な事情」と言わないなら、例外などまず認められないでしょう。
こうまで「設定した構造」にこだわるからこそ、精神分析というやりとりにおいては、Bさんのずいぶん独特な精神のありようが浮かび上がってくるという、これは一種のカラクリなのでしょう。
Bさんは、自分の「客観的な正しさ」をなんとしてでも「証明」したく、そのために「母の死」という「特別な事情」を「でっち上げる」のではなく「事実として演出」してしまうのです。もちろんそれは「意図的に害した」というわけではありません。ある種の偶然ではあります。
このような「キャンセル」が認められるのであれば、やはりこの世に「例外」はあるということになり、「論争」はBさんが勝利したということになります。
しかしまさかこんな場合にすら「キャンセル」は認められないとなったら、もはや分析家は「極悪人」にされてしまうのです。
要するにBさんはもはや「勝ったも同然」であり、もし「勝てなかった」としたらそれは分析家のセドラック氏が「常識的に客観的に異常な極悪人である」と言える状況を「手に入れた」のです。
しかしこうまでいわば罵りながらも、Bさんは「想像していたとおりの冷淡で、貪欲で、愚鈍なセドラック氏」の分析を辞めようとはせず、継続するのでした。ということは、Bさん本人にも自分の「病状」の重さの自覚があるのでしょう。
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