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3ヶ月チャレンジ通信

私は「3ヶ月チャレンジ」という独自のオンラインコミュニティを運営しています。

来月で第6期が終了します。つまり1年半、このサービスが続くことになります。

このサービスの中には、週に一度、私とオンラインで1時間以上は対話することが含まれます。

このサービスを始めてからずっと、私は精神分析的な臨床例についての本を読むようにしてきました。

おそらくここ1年半は、1日も欠かしたことがありません。

そういう臨床例を読むとお前の「カウンセリングもどき」のなにか役に立つのかと言われれば、役に立つこともあります。

しかし毎日のように読むのは「役に立つから」というよりも「気持ちの支えになるから」なのです。

臨床の実践例を読むのは私の「仕事術」なのです。なお「3ヶ月チャレンジ」も仕事術としてのサービスであり「心理臨床」ではないつもりです。

最近はずっとこの本を読み返しています。

とくに気になっている第9章の「静かなるトラウマ」からすこしだけ引用します。

心理療法が開始されて2年半後のセッションで私はいつものように、彼の話を聞きながら、内容が全然頭に入ってこないことを意識していた。彼が話をしているそばから内容を忘れてしまう。私は思わず、
「私たちは、互いに相手の話が頭に残っていないのではないでしょうか」と呟いた。すると彼は
「自分はそうですね」と同意した。

この「2年半」という長い歳月にはなにがあるのでしょう。2年以上もの間ずっと「互いに相手の話が頭に入っていない」というのは、一般にはちょっと考えられないことです。

そんなやりとりのために「お金を払う気になる人」など、事前にそうとわかっていたらまず現れないでしょう。よほどのお金持ちならともかく、この種のカウンセリングは決して安価とは言えません。

これを成立させられるなら、相当の意思と、相当の動機と、したがって大きな希望があるはずなのです。

ありきたりな結末だったり感傷にまみれていたりすれば、読後の失望もそれ相応に大きなものになります。

そうではないと思えるからこそ勇気づけられるわけです。

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