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幽霊の正体見たり枯れ尾花

暗い夜道を歩いていると不安になることがあるでしょう。そんなときに少しでもおびえ始めると、その恐怖は急に大きくなります。あまりにも恐れがひどいと人は少し正気を失いかけます。

遠くの方にかすかな、形もハッキリしない「なにか」がぼうっと「見える」ような気がします。動悸が高鳴り、汗がにじみ始めます。

そんな得体の知れないものが見えているところへは近づけません。しかし少しでも理性の力を借りてよく目をこらしてみると、なんてことはなくただ月の光を浴びたススキの穂が、風に揺れているだけなのです。

こんなときにこそ「無意識が介在している」と考えていいと思います。ぼうっと「見えた」のはススキの穂ではなく、枯れ尾花でもなく、「恐れの気持ち」なのです。

無意識が「不安」を知覚させたのです。

「無意識そのもの」はもちろん目には見えません。言葉の定義からして「意識」すらできないのです。コントロールもききません。しかしたしかに私たちの心のどこかに「在って」、そして「なにかをする」ことができます。たとえばススキの穂に「幽霊のようなもの」を見るきっかけを与えることができます。

「夜だとしてもオバケなんか見ないよ」という気丈な人もいるでしょう。しかしそういった人でも、家を出て一〇歩もしないうちに、急に不安になって「鍵をきちんとかけたかどうか」を確認しに引き返した経験はあると思います。

引き返さないまでも「気になった」ことはあると思います。

ここに重要なカギがあります。私たちが「朝起きるのがつらい」という時には多かれ少なかれ「不安」を抱えています。

「なんの不安?」というのはまたしても逆になっています。不安がまずあります。それを「起きること」や「起きてからの活動」に投影しているのです。

私たちは、現実のイベントや表現を「見て」、それによって「不安にさせられる」とどうしても信じがちです。

だからセミナーやプレゼンで「苦い顔をしてみている人がいた」と思って不安になるのです。話がまずかっただろうかとか、つまらなかっただろうかとか心配になるのです。

現実につまらなそうな顔をした人がいたのではなく、登壇者の不安がその顔を「作りだした」と考えたほうがおそらく適切です。

ここでふだんからずっと先送りしてきた「タスク」をひとつ見てみましょう。
先送りにするくらいなら「このタスクをやるのはつらそうだ」と感じてきたはずです。

しかしそれはまずまちがいなくふだん抱えているネガティブな気持ちをタスクに投影し、味付けした結果でしかありません。