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#17

須恵器には叩きの技法が残っていた。
文献には気泡を追い出すためにおこなったと書いてあるが、
技法的な部分で言えば、それよりも焼成中の陶土の収縮時の均一化と表面の凸凹による強度が発見され、その為に施した技法が器の表面に残ったと考えるべきだと思う。
物流の変化にもよるだろうが、それは古代から中世、それ以降の時代により扱う原土の粘性の変化なのかもしれない。

参考文献:田辺昭三【須恵-日本陶磁大系4-】平凡社1989


土師器があり須恵器があった。
土師器は素焼土器。須恵器はそれをさらに高温で還元焼成(いぶし焼き)したもの。
須恵器の一部に、焼成中に灰がかかってその部分が自然釉を呈したものがあり、そこから釉薬がけの技術が発展する。そして、釉薬をかけた本格的な陶器の生産は鎌倉末期の瀬戸に始まるのである。

小皿がおかず、あるいは肴を取り分けるのに古くから重用された。
例えば、神前や仏前に供えるカワラケ(土器)の存在である。「瓦笥」と記す。瓦質の陶器、つまり素焼き土器の小皿に他ならない。ほんの半世紀も前までは、各地に土器のそれが残存していた。多くは農家の副業として伝えられていた。カワラケ作りで、最も古い技法を伝えていたのが京都の窯であった。そこでは、田の底土を使い、肘で成形していた。(左の掌に粘土の塊を置き、古布をまいて右手の肘で叩いたり撫で回したりして形を整え、それを少し乾かした後なめし皮で表面を均して仕上げるのである)。

参照文献:神崎宣武【うつわを食らう】吉川弘文館 2017/1996

中世は国家間の外交を基軸として展開してきた中国(隋・唐)、朝鮮(百済・新羅・高句麗三国)を中心とする大陸諸国との関係が、公私貿易の共存の形で恒常化した。
平安前期まで、高級官僚・社寺の独占物とされてきた輸入陶磁器が、11世紀後半代以降、大量に流通した。

#メモ