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#13

職人の腕の磨き方に渡りがある。この職人世界独特の習慣は東日本では「西行」と呼んでいた。
西行と言えば、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した歌人、西行法師を思い浮かべる。
西行が生涯にわたって旅をして諸国を遍歴したところから、各地を廻って仕事をして腕を磨くこと、あるいはその職人をこう呼ぶことになった。
ここに渡りの作法なるものがあり、渡職人には訪れる時間や仕事場での作法や挨拶に厳しい決まりがあった。それが出来なければ最初から相手にされなかった。
仁義を切る必要項目として、出身地、姓名、自分が修行した親方の地名と姓名、渡りの経歴など。相手(親方)は渡りの腕を見定めるために、一定の仕事をさせたり、体の一部を見たり、鳶の場合は木遣り歌を歌わせて本物の鳶かを判断した。左官の場合は、右手の中指を見て判断したりした。板前では「桂剥き」をやらせた。職人の包丁の技術を見るにはこれが一番で、途切れず剥き、しかも新聞紙を透かして読める薄さに剥くことが合格基準になっている。桂むきがうまいと他の包丁使いも間違いないからである。
西行をする際の気持ちについて「旅をしてあそこが面白かった、ここへ行って楽しかったというのは嘘である。これは旅をしていたのではない。本当に旅をして仕事を覚えようとするものは、10年歩いても楽しいことなんて一回あればいい方である」と述べている。
ここに2つの基本的な姿勢を読み取ることができる。一つは目的である技術向上が全てに優先し最後までこの姿勢を貫いている。一つは精神的な修行も含んでいた。

渡り職人が土地土地の人々が知り得ない外の世界から新しい技術や超人的な霊力をもたらす存在と意識されていたことから生じている。特に大工が神格化されて語られることがあるのは、壮大な建築物を造りあげる優れた技や大勢の職人を統率する力への畏敬の念とともに、中空の建造物は魂の入れ物であり、その中に住まう人を育むとする信仰がその背景にあるといえよう。

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16世紀になってから職人は、手工業者をさすようになった。それ以前は、職能・職権も意味を持ちつつ幅広い職業を含み、「道々の者」「道々の輩」とも呼ばれた。

近世、職人たちはやがて親方層を中心に地域毎に同業で仲間を形成し、得意先関係の調整、手間賃の協定、新規参入の職人や弟子に関わる問題の話し合い、職人通しの結束と利益保護を図っていった。

同じ職種の中でも地域的特色が認められている。例えば鍛冶屋をみると、作る製品によって分かれている。村にはそれぞれ地域の野鍛治がいる。田畑を耕す鍬や鋤などの農具は、山地・台地・低地などの地形差、土壌の質の差、さらにそれに由来する作物の種類の相違などに合わせて形や寸法が大きく変わってくる。「鍬は三里違えずして違う」。その土地に住み、依頼客と直接向き合って細かい要望を聞くことによってはじめて可能となる。(ここでの依頼客は人ではなく、人では無い何かとする)

参照文献:三田村佳子 他【日本の民族-物づくりと技-】吉川弘文館 2008

#メモ