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#21

甘さがエリートの料理を物語るものであったとすれば、庶民の料理は何よりも塩味が中心であった。一年を通じて最低限の食料を確保する役割を果たす保存食品の中には上流層の食卓に登場する素晴らしく美味なものもあったが、何と言っても家庭内で普通に作って食べるような「日常の」食生活の基礎となるものが圧倒的に多かった。これこそが、中世以来、金持ちと貧乏人、領主と農民の食のイメージを第一に区別していたものである。
食事の内容を選べるものに対して塩漬け肉を避けるように忠告している。なぜなら、塩によって脂肪分が失われた状態になった肉は消化しにくいからである。魚についても同様の警告が与えられている。

ラテン農業文明の真の象徴であったオリーブ油が持つ威信と対置されたのは、バターとラードである。バターとラードは蛮族の遊牧と牧畜の文明を象徴するものだった。
ローマ人が豚の脂を嫌っていたわけではないが(ポー川流域はかつてのケルト人支配から文化的な影響を受けており、イタリアで最大の豚肉生産地で、ローマの市場へも豚肉を供給していた)、首都の民衆に皇帝たちが気前よく配給した食糧の中に豚肉が登場するのは3~4世紀以後のことである。中世初期、ゲルマン文化の拡大の後に押されて森林経済の価値が高まると、ラードは食体系の中で強力な価値を与えられている。しかし、6世紀になってもまだ選択肢としてオリーブ脂を優先させるローマ文化が残っていた。
ゲルマン民族が政治的にも社会的にも地歩を固めたことは、肉類一般と並んで、獣脂のイメージ改善をもたらした。
宗教典礼の暦が課す戒律は、修道士だけでなく全てのキリスト教徒に対して、一年のうちに多くの日々に四足獣を食べないように強制した。この戒律は獣脂の歴史によって決定的な結束点となった。戒律に縛られる日々にはラードを植物性の油で代用することが避けられず、こうして中世の食文化の中でラードとオリーブ油を交互に使用するというそれまでなかった状況が生まれた。
ラードとオリーブ油は、もはや異なる文化、異なるイデオロギーと社会を表現するものではなくなり、社会全体に共通する単一の消費体系の中に統合されたのだ。


実際には、統合は完全なものではなかった。実質的にはラードだけがだけが一般に使われるようになったからだ。オリーブ油はオリーブが栽培されている地域以外ではかなり高価なものであったため、エリートのための食品であり続けた。
それでは四句節期間中の戒律の問題はどのように解決されたか。
まず、様々な産地の油が持ち込まれる市場で手に入れる方法があった。
もう一つの方法は、別の植物油で代用することだった。
(例えば、クルミ油は古代ローマの人々にはムカつくような味と受け取られていたが、中世の間に予想もしない成功を収めた)
しかし、オリーブ油は高価だったため、粗悪品が市場に流れた。
そして、中世末期(15世紀前後)の数世紀には、教会当局が禁欲期間中の油の代用品としてバターの使用を、許可した。
(これは初めのうちは北ヨーロッパだけ[民衆や農民レベルでバターを使う伝統があった]だったが、やがてイタリアのような南欧の国々にまで広がった)


19世紀末、様々な地域の伝統の多様性を考察しながら、「その土地で最も好まれている油脂」を使って「土地の人の好みに合わせて」使う。と指示を出している。これは多様性を尊重する思慮深いものではあるが、多様性の定義において地域的重要性を過大に評価している。実際には、ほかの変数、経済的なものではなく社会的・文化的性質の変数、宗教的戒律が課す義務、食物のイメージ、流行のメカニズムなど、が何層にも積み重なった習慣の価値観を作り上げてきたのだ。
20世紀になってからも「地中海式ダイエット」が発見されたおかげで、オリーブ油の新たな反撃が始まっているからである。歴史はまだ終わっていない。

参照文献:アルベルト・カパティ【食のイタリア文化史】岩波書店 2011

#メモ