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インド生活回想記①


写真はデリーで生活していたアパートの近くの寺院。寺院前ではいつもプージャというインドの神様にお供えする花や様々なお香が売られている。


私は離婚後にインドで生活をした事がある。
生活した事も含め5回は渡印している。

初めてのインドはムンバイ側のプネという都市だった。

インドの伝承医学アーユルヴェーダを学ぶために渡印したのだ。

インド人ファミリーにホームステイさせてもらいながら集中コースでアーユルヴェーダを学んだ。

床に座り手で食べる日もあればテーブルでフォークやスプーンで食べる日もある。



その後まだ学び足りないと思い、デリーの女医の元で付け加えたい部分のクラスを受講した。

私はそのクラスの受講を終え日本に戻った。
戻って一ヶ月もしないうちに、その女医が日本人のマネージャーを募集しているという知らせがあった。

その女医は当時3つのアーユルヴェーダのクリニック&スパを営んでいた。

その中の1つはニューデリーのそばの観光客がたくさん訪れるブランチだ。

そこは日本人を含め海外からの観光客がアーユルヴェーダのトリートメントを受けに来たりアーユルヴェーダを受講しに来る。

インド人セラピストたちは多少の英語は話せても日本語は全くわからない。

朝のプージャの花飾りを作るインド人セラピストのスリラジャ

その当時、日本人の観光客が多かったため女医は日本人に関心を持ち、日本人を募集したのだ。

私はすぐ応募した。

理論的も学び、トリートメントの講習も受けたが一度や二度では覚えたとは言えない。マネージャーとしてそのクリニック&スパにいればトリートメントの練習もできるだろうし、アーユルヴェーダ発祥の地インドで生活することで本では学べないアーユルヴェーダを体感できると思ったのだ。

私は離婚後、ひどい目まいに襲われ、眠りから目を覚ますとベッドの上で寝ていても全てが回転し目を開けることもできないほどだった。

一週間ほどひどいめまいが続き、ようやく目を開けても大丈夫になって、自分の健康についてひどく不安になってしまった。

離婚前は家族と一緒に住み、なんとなく何かあっても誰かが助けてくれるような気持ちでいたのだろうが、一人になったら誰も助けてくれないと不安になった。

子どもにはなるべく迷惑をかけたくないとも思った。

健康は自己管理が大切だと想うようになった。

医者に行っても検査のみで治す薬はなかった。

医師に原因を聞いてもストレスでしょうねと言われるだけだった。
回転性めまいは医者に行ったところで治るものではなく、自然に治るのを待つしかない。

それまでは健康については、身体の具合が悪くなったら医者に行くか薬を飲むくらいの考えしかなかった。

そのめまいをきっかけに自分で日頃から健康に対して何かもっとできることはないのだろうかと思い始め、ヨガを始めてみた。

その後、バリ島に一カ月ほど滞在し毎日ヨガをした。

激安ホテルを一週間だけ予約し、そのホテルのスタッフの女子と仲良くなり、更に激安ホテルを知り合いということで激激安にしてもらった。

食事もほぼバリ人がいく食堂で食べていたので、飛行機代も含め東京で一カ月暮らすのと変わりない生活費で暮らせた。

その後、日本に戻ってからヨガやヨガ哲学の本を読んだりしているとアーユルヴェーダという言葉があちらこちらに出てきた。

ヨガを知るとたいていアーユルヴェーダが関連してくる。

そして日本語のアーユルヴェーダの本を数冊読んでみた。

しかしその内容では物足りず更にアーユルヴェーダを知りたいと思い、日本でアーユルヴェーダを教えているスクールを調べてみた。

あるスクールはセラピストコースや各トリートメントの受講終了までなんと400万円くらいかかる。

他校も安いとはとうてい思えなかった。

また通信講座は深くまで学べるものはなかった。

日本はあんまや鍼治療の国家資格はあるがアーユルヴェーダにはそんな法的な資格などない。

それなのにそんなにお高いとは…

と思いながら調べていくとインドでなら私の出せる金額で受講出来る事が判明。

そしてそのインドのアーユルヴェーダ医師のトレーニングコースの受講を申し込んだ。

インド大使館に行きビザの申請をして慌ただしく支度をした。

私は他県に住む母にはインドに行くことを話せないでいた。

母に言えば面倒くさいことになる。

そんな変なところに、そんな不衛生なところに、そんなところで病気にでもなったらどうするの...と言われるはず。

そんな変なところでも異文化を知ることの楽しさが好き、そんな不衛生なところだとしても自分の五感でまるごと体験することに意味がある、そんなところで病気になってしまう可能性も承知で行く...けれど母には理解できないので、私は何も言わずに渡印してしまった。

と言っても叔母から母には私が渡印したことは後で伝わっていた。

私は12月下旬にデリーに到着した。

予想していたより寒く、日本から持ってきたブーツを履いていた。

医師が借りてくれたアパートのベッドでも毛布と布団の両方をかけて寝た記憶がある。

以前に2回ほどトレーニングやクラスの受講で来ていたが今回は生活と仕事が始まるのだ。

翌朝は近所のヒンドゥー教寺院のお経と鐘の音で目を覚ました。

今日から毎日、この音を聞いて暮らすのだと思った。


その日は近所の安ホテルの1階で朝食を食べた。

インドなので牛肉も豚肉も出さない店がほとんど。

スクランブルエッグと豆でできたソーセージもマサラ味。

ブレッド類はなく、チャパティかロティというインドのブレッドと言えばいいのか。

そしてコーヒーを注文しても間違いなくインスタントコーヒーがでてくるので、チャイを飲む。

食費も衣類も安いので滞在中はお金のことで心配しなくてもよかった。

ただし水だけは絶対に水道水も飲んではいけないし、沸かしてもダメだ。

ミネラルウォーターだけは常備していた。

キャップを開けた気配のあるミネラルウォーターを堂々と売っていたりする商店もあるので注意。

そして店で飲む氷入りの飲み物もキケンだ。

氷がミネラルウォーターから作られたかの疑惑があるからだ。

インドでは日本人がカレーと呼んでいるもの以外にもいろいろな食べ物があるが、とりあえずはそのカレーが中心なので日常的には食べることになる。

カレーを作るには水が必要だがその水がどうかはわからなかった。

しかしカレーには10種類くらいのマサラを使うため、カレーを食べてもお腹を壊したことは一度もなかった。

私は一度だけ、ひどい大腸炎をおこしたのだがそれはチャウミンというネパール料理の焼きそばを食べた時だ。

屋台風の店に昼休みに行くと列を作って人が並んでいる。

値段は20ルピーだった。日本円で20円くらいだったと思う。

鉄板の上でキャベツと人参と麺をマサラ味で炒めたものだ。

2回目までは何ともなかったのに3回目でとうとうひどい大腸炎になり、病院で半日点滴を受けた。

そしてもうそのチャウミン屋には行かなくなった。

デリーにはネパール料理店が多い。

インド料理でなくアジア風がいいなあと思ったらネパール料理店に行き、モモという餃子に似た食べ物を食べたりした。

デリーは地下鉄もバスもリキシャもオートリキシャも使えるので、その点はすぐにどこにでも行けて便利だった。

そしてインドの衣類だが、女性が着る一枚の布を巻き付けて着るサリー、上下セットで買えるパンジャビ。普段日常的にはパンジャビ。

パンジャビは着ていて楽だし、様々なデザインや生地があり楽しめる。

私も滞在中はパンジャビを毎日のように来ていた。

やはり気候に合っていてインドの暑い気候に合うのだ。

インドは室内や木陰に入るとひんやりする。

気候に合わせ床も壁も大理石でできているためひんやりする。

パンジャビは七分袖でも外も室内でも便利だ。

パンジャビとセットで売られているドゥパタと呼ばれる長いストールも生活必需品。

焼けるような暑さから身を守るため、少し肌寒い時にもぐるっと首に巻き付けたり、肩に羽織ったりする。

衣・食・住を整え、いざ仕事場に出勤。

出勤初日の日から、ありえへん...という出来事に遭遇。

インドの話はいろいろありすぎるため、続き....

こんなnoteもやってます。よかったら見てください。


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