大洪水

「100年に一度の大洪水で“死亡説”流れる」

インド人客の出入りがちょこちょこと増えてきて、我が秋平のインド人スタッフもある程度仕事ができるようになった2015年12月1日。僕がインドに渡ってから5ヶ月目の出来事だった。

忘れもしない。「100年に一度の大洪水」の最初の日である。

その日は朝から雨が降り続いていた。僕は遅番だったので昼からの出勤。昼頃に、もう一度目を覚ますと目の前の道路が冠水していた。その時はおそらく足首辺りまで水が来ていたと思う。

「すみません、天気も道もこんな感じなので、様子見で店行きますね」

「おー気を付けてね!こっち(店)もこんな天気だからお客さんゼロだわ」

なんてやり取りを社長としていた。前述の通りナマケモノの僕は、もう一度寝た。「チャンス!!」とばかりに思っていたと思う。そして1時間後くらいに目を覚ますと水位が腰上くらいまで上がっているではないか。アパートの一階部分は駐車場になっていて、さらに一段上がっていたので車などは浸水してなかった。すると、

「ッブゥーン」

停電である。チェンナイは(僕らの住んでいたMadipakkamという地域は特に)少しの雨で停電になる。停電くらいは日常茶飯事なので特に驚かなかった。

「ちょっとこれじゃ今日行けそうにないので休みますね!」

「了解!これじゃお客さんも来ないだろうから、俺らも様子見て帰るよ!」

と社長に連絡を済ませると僕は本を読んだり、ギターの練習をしたりして過ごしていた。「停電復旧しないかな〜」といつもよりちょっとばかり長めに続いている停電を憂いていた。

しばらく時間が経って気が付いた。

「俺、腹減ってるぞ」

そう。朝から何も食べておらず空腹に襲われた。なんなら昨日の夜から食ってない。もうかれこれ18時間くらいになる。流石に限界だったので部屋の中を捜索するも、何も出てこない。

そう。僕らには秋平があった。家から1.2km先にある店に行けばいつでもうまいラーメンが食える。よって、家には食料が何一つストックされていなかったのだ。

「終わった」

しばらく雨も止みそうにないし、止んだとしても道の水が引くまでに何時間かかるんだろう。その“水”って、牛や犬や猫や人の糞尿が入り混じっている『超猛毒水』な訳だ。そんな水の中に入って店まで行く?んなことできるわけ無い。それこそ“死”だ。明日の朝、店に行けなかったら…。

“人間は、水さえあれば3日は生きられる”なんて言葉を聞いたことがあったけど、そんな言葉は気休めにもならない。実際、慣れない外国の土地で、頼れる人は2人(拓、社長)しかいなく、その2人も近くにはいない。孤独だった。全く先の見えないあの状況では、本気で「死ぬかも」と思った。

停電も復旧の見込みなく段々と日が暮れてきた。完全に暗くなる前にロウソクを探し出し、火を点ける。すぐにライターが出てくるのだから、この時ばかりは喫煙者である僕を褒め称えた。

そしてさらに引き出しやら戸棚などを再捜索したら一個だけ「オイルサーディン」が出てきた。

「OH MY GOD!!!」

英語なんてまだまだ喋れないのに自然と英語が出てきた。任期を終えた駐在員さんにもらったどっかの国のお土産だった。缶を開けなんの魚か分からん(光り物だった)魚を手でつまみ一口。ぜんっぜん美味しくない。それでも「生きてる」って実感が湧いた。これさえあればあと24時間くらいは生きられる。俺の勝ち!!と強気になった。

ふとベランダの外を覗くと、向かいの住人が外の様子を見に、出てきていた。それとなく僕も様子を見るフリをしながらベランダへ出る。顔を見合わせ「参ったね」みたいなアイコンタクトを取ると彼が「なんか食うものあんのか?」と聞いてきた。そんなに貧相な顔してたかな、と思いつつも「ないんだ!!」と答える。すると彼が「ちょっと待ってな!」と言って家の中へ入っていき、何かを持って再び出てきた。

「これ、少ないけど食べな!」とこちらへ投げてくれた。それがこれだ。

チャパティと言って、ナンの下位互換。庶民の食べ物だ。「OH MY GOD!!サンキューベリーマッチ!!!」そう言ってありがたく受け取った。インド人の優しさに涙をこらえながらありがたくちびちび食べた。普通はカレーとかに付けるんだけど、ないからそのまま。でも、本当に美味しかった。

なるべく腹を空かさないように、基本は横になって《無》の状態でいた。スマホの充電もできないし、夜には電波も無くなっていた。誰にも連絡が取れない孤独な状況。しかし、先ほどの“食料の戦い”で僕は勝っている。そんな簡単に死んでたまるか。何時間だって耐えてやるわ。と、強気になっていた。

何も体力を使っていなくても睡魔はやってくるもので、気付けば朝になっていた。

雨は止んでいた。しかし、最高に水はけの悪い道ゆえ、水位は昨日の夜と同じ、腰上あたりだった。「連絡も取れないし、今日も体力使わないように横になってよう。」と昼過ぎまで過ごしていた。

すると、家のドアが開き「ケンさーん!」という声。拓だ。拓がこの水位の中、店から家まで来たのだ。クレイジーすぎる。

「ケンさん、チャーハン持ってきましたよ!」

お前まじか。どんなけデキた人間なんだよ。自分の命を顧みず、こんな僕のために、文字通り“命がけ”でチャーハンを持ってきてくれたのだ。蓋を開けるとその匂いだけで鳥肌が立った。

「美味い、美味いよ。人生で一番美味いチャーハンだよ。成田で食ったウナギより美味いよ。もったいないから半分だけ食べて、残りは夜食う」と言って大切にしまった。次開けた時には腐敗臭がすることも知らずに。人生うまくいかん。

拓とお互いの昨日からの状況報告をしていたら、外からヘリコプターの音が聞こえた。「なんだなんだ?」と二人でベランダに出て上空を見てみると、かなり近いところにヘリがいた。すると乗組員の一人が僕らのアパートの屋上めがけて何かを投げた。

「救援物資だ!」

拓と僕は二人で外に出てみた。救援物資を分け合う住民たち。どうやらその辺一帯の住民共有のものらしい。そして僕らが貰えた分け前がこれだ。

食パン8切れ。チャーハン食ってちょっと気持ちのおっきくなった僕は

「ジャムがねえじゃねえか!」

と贅沢な文句も感じられるようになっていた。

おそらく、インドで救援物資をもらった初めての日本人だと思う。このインドでラーメン屋事業をしていく中でたくさんの“初”を頂いてきたが、この初が一番おもろいと思う。

天気も気持ちも落ち着いてきたので、店まで歩いてみることに。

ボートに乗り庶民たちに“何かしら”をしている警察官たち。

場所によっては足首辺りの水位で落ち着いているところもあった。(橋の上から撮影)

全く営業のできない期間が丸々1週間続いた。その間僕らは食べ物が腐る前に消費しようとガスを使って飯を作ったり、川になった店の前の道をボ〜ッと眺めたりして過ごしていた。

だいたいこういう時は、いつ次の食料が手に入るかわからないから、大事に食べようとするものである。しかし、うちのインド人スタッフはとにかく先のことを考えない。その日生きられればいい!という考え方なので、給料ももらったその日に全部使って次の日に「給料前借りさせてくれ」って言いにくる始末。それはここでもまんまと裏目に出て、被災した初日からガンガン米を食って、3日目には米がなくなっていた。

「さー、米がないから買いに行こうと思うんだけど、スーパーやってないんだよね。」

知らねえよ!他のスーパー見てこいよ。そもそもお前らが先の見通しもって米の量調整しないからこうなるんだろうが。

とか思いながらもみんなで協力してこの大災害を乗り越えた。人生で初めての被災が、インドで、になるとは思いもよらなかった。

ちなみに後から聞いた話。日本人コミュニティでは「秋平メンバー全員死亡説」が流れたらしい。どうやら、どこよりも浸水の水位が高い場所だったらしく、店の近くまで状況を見にきてくれた辻さんも、あるところからそれ以上進めず「ミイラ取りがミイラになる!」と、引き返したらしい。

さらに、電波が通じなくなったのがうちの地域が早かったらしく、それぞれの知り合いが僕らに連絡をしてくれていたらしいのだが、誰からの返信もないし、Facebook上に出てくる「被災地域にいる人の安否確認」というありがた迷惑(こらっ)な機能のおかげで、「秋平メンバー誰も安全報告がないぞ!」で、

「死んだ」

となったらしい。飛びすぎだろ。


ちなみに、店の被害額で言うと、完全に「死んだ」のはまた次のお話。



※こちらが、大洪水中の秋平の様子。思ってたよりみんな楽しんでた。



See you next No Joke...

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