日記:3月下旬

TwitterがシャドウBANを食らったようだし、SNS毒の排出も兼ねてしばらくこっちで日記でも書いてみよう。

ここ直近になってようやく自覚したのが、情緒の『猜疑心』というのは出力できない感覚情報があるとどんどん膨れ上がっていくらしい、ということだ。他人と感覚を共有できず、かつ表面的な問題が特に起こってないとき、その感覚と繋がっている情緒がどう判断するかと言うと

・自分の判断や認識が間違っている
・自分の出力、ないし認識が間違っているが、他人はそれを意図的に無視している
・他人が自分に対して嘘をついている

のどれかになる。普通、脳は自分の認識違いを自己判断できないから、脳がそれを人間関係の範疇で解決するには「他者と情報を共有する」か「他者が自分に対して明かしてない情報を推測するためのメモリを多く取る」のどちらかになるだろう。

で、問題になるのは共感覚だ。

共感覚の仕様についてもう自分としては百も承知だし、共感覚の情報が他者と共有できないことについて悪意も何もないことは経験則としてわかっているのだけれど、最近ようやく接続し直された私のナマの情緒はそれを消化するプログラムがまだなかったらしい。(と言うか、人間関係の概念が生えてくる段階でそのプログラムを用意できなかったから、その年齢付近で接続が切れたんだろう)

「自分の共感覚について他者がどう応答するか」を確かめる術がないため、「他人は本当は嘘をついているのではないか」と考えるための領域が大幅に取られ続ける――つまり、『猜疑心』だ。

これによる脳の過負荷を回避するために私の中で「自我を使い捨てにする(猜疑心が発生するまで自我を成長させない、発生してきたらそれを切り捨てる)」という処理が生まれたんだろうと推測している。

が、今は自分のナマの情緒を維持し続けると決めてしまったために、猜疑心が生える段階までまた自我が育ってしまった。今から振り返ると、ここ最近描こうとしたものがそれにだいぶ引きずられているのがよくわかる。

いや、最近に限らないかも知れないな。共感覚の情報と情緒を同居させようとするなら、共感覚を優先すれば「TFついでに精神が混ざる」とか「洗脳される」とかになるし、情緒を優先すれば「嘘が現実化する」とか「言葉どおりに心身が縛られる」になる。その両者に行き着かずに「共感覚が存在する精神」を表現しようとするとまず「猜疑心」という形になってしまうんだろう。たぶん20歳あたりからずっとそういう傾向だった。

ちょっとだけ、情緒が成長したら共感覚は消えるのではないかと思って――少しどうなるかと期待して――いたところはあるが、現状特に消えてないし、たぶん、共感覚を無視して表現を続けることはできないだろう。生計を立てるなら表現物に情緒の情報が入っていたほうがいいので、できれば猜疑心以外の形になって欲しい(というか、情緒用のメモリを猜疑心の維持に使われたら話作りなんてできない)んだけど――どうなることかなあ。

まあ、こっから先の共感覚と情緒の同居生活は、完全に私の中で初の出来事だからどうなるか全然わからない。とりあえず言語化しただけで良しとしよう。


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