呟きもしなかった事たちへ_No.18(2020年12月号)

※コンセプトは創刊号をご確認ください。ぼーっとする文章が続きます。バックナンバーはこちら

イチゴ大福の類似商品で「シャインマスカット大福」なるものを買った。シャインマスカットを使っているのでそこそこ高い。400円くらいした。うまいなと思った瞬間、後味で「フルーツの森」がやってきた。駄菓子のあれだ。確かに内訳としてはフルーツの香り、餅、ではあるが。お前か、400円で支払ってお前なのか。

今月も、呟きもしなかった事たちへ。

環境音楽

ビジネスホテルの大浴場に入っていると、何やら穏やかな音が鳴り続けている。いわゆる環境音楽。大体映画のラストシーンで流れてるような、「ファー」な感じのやつとか、ピアノがゆっくりポーンと鳴っているやつだ(恐ろしく説明が下手でFFSみたいになってしまった)。ビーナスフォートとか、商業ビルなどにも使われていた気がする。

だがどうしてもこういう「ファー」な感じのやつを聞くと、真・女神転生のカテドラル地下進入時のBGMを思い出してしまう。ついにラストダンジョンに入るという盛り上がりもあって、あの音を初めて聞いた時の衝撃は忘れがたい素晴らしいものだ。

つまり、僕はああいう「ファー」なやつで全然落ち着かないのだ。毎回ビジネスホテルの大浴場で「あーメガテンやりてー!」となってしまう。環境音楽を使う際はぜひ「ポーン」の方でお願いしたい。

写真

よく行くお店の主人が結婚した。その店の常連カップルも結婚したので、果たして他の常連達でこの二組を祝うパーティーが開かれることになった。ちゃんとしたカメラを持って行ったのが僕だけだったので、写真を撮ってアップするよう頼まれる。

僕の写真の師匠はあさり氏なのだが(これは師事したというよりは、僕が写真をやる前から彼が撮る写真を見たり批評したりしていたので、彼のやり方を自然にトレースしてしまった点があるという意味だ)、いわゆる「お澄まししたピースサインの写真」としての良い写真、決まった形でのめでたい写真をあまり撮らない。内面が出るように撮りたいと思ってしまい、悪く言うと内輪性がある(もちろんあさり氏はそこを打破する一般性も持ち合わせているのだが、僕にはまだない)しかもパーティーは僕も飲んでいる。内輪性は加速する。

たとえば、僕は今回新婦が滅茶苦茶ばか笑いしている写真をアップした。他にも一応「いかにも結婚式です」な写真はいくつかアップしていたが、写真としての出来は明らかにこの写真の方が良い(言い換えると、「いかにも」では良い写真を撮れて無い)し、実際新郎もばか笑いの写真について「これが一番可愛い」と言ったらしい。上手く行っている反面、大変まずい。これはつまり、僕の写真自体が距離感として近い人にしか見せられない、例えば新郎が遠い親戚に写真を披露するとなると全然役立たないという事だ。もちろんその写真が悪いという訳ではないが、「いかにも」を撮れてない。

基礎力が足りない。

味集中カウンター

感染対策ということで、多くの飲食店が隣の席との間に仕切りを設けた。いわゆる一蘭の「味集中カウンター」スタイルになりつつある。

しかし一蘭の味集中カウンターとの圧倒的な違いがある。昨今増えつつある飲食店の仕切りは透明で、広告や商品説明のような紙が貼られていない。まだ感染対策という行為自体が「真面目」で、あまり遊びを許さないという事もあろうし、あるいは仕切りが視覚も遮ってしまうとホール管理にも問題があるのかもしれないが、いずれああしたやり方をしている飲食店は少ない。味集中カウンターの特許のせいかなと思われる方もいるかもしないが、あの特許はカウンター全体の構造であり、仕切りに広告を貼る事ではないはずだ。昨今の状況を見るに仕切りが外れていくのは当面先であろうから、ぜひ各飲食店に置かれては一蘭のうるさい感じを真似していただきたい。それくらいの元気はあっていいと思う。

そもそもだが、一蘭の味集中カウンター、「集中しろ」と言っておきながらあの乱雑な文字の洪水は何なんだ。集中させろ。

くどさ

面白い情報ソースだな、とフォローしても、しばらくすると嫌になってしまう…という事になりがちで、自分の飽き性を呆れるばかりだったのだが、少し冷静になってみるとどうも自分のせいだけではなさそうだ。

情報を発信することを生活の糧にしていたり、ライフワークにしていたりする以上、ある程度告知はする必要がある。別に生活の糧やライフワークじゃなくても、僕程度の軽いnote使いでも、過去記事を定期的に紹介したりする。情報に特殊性があったり、特定の分野に限定して発信している場合は、その分野に注目が集まるようにある程度警鐘を繰り返し鳴らしたり、興味を引くような記事を宣伝したりする。それは仕方ないし、僕がその情報ソースに気付けた理由もそうした活動によるものなので、止める必要はないのだが、しかし…僕はもうそのソースをフォローしている身なので、フォロー後にも繰り返されるそういう警鐘や宣伝は、僕にはやや多いものだ。戸棚をamazonで買うと「もう1個戸棚どう!?」とバナー広告が埋まるあの状態と同じで、くどいしそこまで必要ではない。そのくどさが、嫌になる原因になってくる。

インターネットの構造上避けられない話だし、インターネットでよく言われる「盛り上がってもすぐ忘れる」のはこういうくどさが原因ではないかという気もする。

少ない人間に程よく辻説法しているだけでも皆が生きていければいいのだけれどね。

近視

通学中の女子中学生がギターケースをしょっていた。ギターケースに黄色い日本列島のチャームが付いていて、これはなかなか渋いな…と思ったのだが、よく見たらキリンだった。

しかし案外似ている。キリンの頭が大きいタイプだと結構似ている。

量と器:ふりかけ編

いつまで経ってもふりかけをパッケージ並にかける事が出来ない。「のりたま」とか、中央の米が見えなくなる量をふりかけているが、あんな事出来る気がしない。よしかけるぞと息巻いても気がつくとあの量の手前で止めている。 

個包装になっているふりかけもあれは1回分の量じゃないだろう、とずっと思っているし、だからお弁当には使わず、家で2回に分けて使っていた。

多分あれは、「ふりかけだけで飯が食える」状態なんだろう。味噌汁もおかずも一切ない状況でご飯を美味しく(もっと言うと、「味をつけて」)食べるためのもの。発想が「炒飯の素」に近いのではないか。

家に、白米とよりによってふりかけしかないという事、あるかな。多分無いしそこで塩むすびやおじやで我慢せずふりかけご飯にしたい欲、もっと無いな。なんらかの思い切りをもってふりかけと対峙する必要がありそうだ。

量と器:クノール編

実は数年前まで、クノールのカップスープを気付かずして結構薄く作っていた。パッケージの説明を見ずにお湯を入れて粉を溶いて作っていた際に、お湯を多く入れすぎていたという訳だ。

理由は簡単で、クノールのCMでカップに並々と入ったスープを女優が飲んでいたからだ。自然、ああすればいいんだなとパッケージの説明書きを見ずに家にあるカップにお湯をしっかり注ぐと、180~250ccくらいになる。ある日パッケージの説明で「150cc程度」と書かれていて驚いたし、書かれた量で作ったらまた驚いた。こんなに少ないのか、そして味がこんなに濃くて美味いのかと。

しかしそうすると、クノールのCMのあのカップは何なのだろう?1.5人前?家族と分けている(2人で3袋=1箱使い切る)のか?そんな豪胆な事をやってたのかあいつは。

↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。