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明日という光待つ暗闇に、劇場に

いずれ、スタァと対峙しなければならない。舞台に立つにせよ、観客になるにせよ。私たちは向かわなければならない、劇場に。

劇場版少女歌劇レヴュースタァライトはイクニフォロワーでありながら、まぎれもなく2021年の作品であった。結果、スタァライトによって、今改めて、ウテナが、時にピングドラムが、そしてレヴュースタァライトが、天井桟敷が、この時代の未来に幻視出来るようになった。J.A.シーザーの曲に調べにのせてここに紡ぐその未来は決して明るいものではないけれども、私達には語り得るものが無い事を示しているけれども、それでも、あるいは…。

ただ、明日という、光待つ暗闇に、劇場に。

バーチャルスター発生学

改めて言うまでも無く、私たちの生産性はこれまで以上に社会性によって評価されていく事になるだろう。「社会のために何を為しているか」を生産性というのだから当たり前なのだが、その社会自体がコロニーやローカル性の垣根を取り払っていく過程においては、生産性は(実態とは関係なく)分かりやすさを、キャッチーさを、素直な評価が可能である事を求められていく。

それは、結局は言ってしまえば、可愛さの戦いだ。

グレタ・トゥーンベリが怒りを表す以外に何をしているのか僕には伝わってきていないが、彼女が発信する怒りは世界を変える(とされている)。これは正しい意味でのアイドルだ。

あるいは、渡辺直美に対して「健康のためにも痩せた方が良い」と言えば炎上は免れないが、世のサラリーマンは健康診断の数値が少しでも悪ければ「生活習慣が悪い」「お前は反省しなければならない」等と言われる事にも目を向けてみたい。生活習慣とは、よりにもよって個々人のライフスタイルを軽々しく批判するものではない気がするが、そもそも偶像性の無いサラリーマンには人権も無い。では、渡辺直美は自由に生きれる事との差は何か。

力はアイドルに、愛される者に宿り、可愛くない者は、つまり多くの人に愛されなければ、人権も無い。そういう戦いに我々は立たされている。AKB48ならぬSDG76億として、「私達はもう、舞台の上」だ。レヴューは始まっている。きっと何者にもなれないお前たち、世界を革命する力で、アタシ☆再生産をしなければ、未来はないぞ!

天地創造すなわち光

可愛くなる事。それが生存戦略であり、バーチャルスター☆再生産だ。自らの力を、世界に溶かし込んで行く事で、身体性を社会に拡張していく事(自分が座り込みを行えば世界が止まるようになる事!)。それが、円環無限に果て無きひとつの有機的な光、ひとつの永久運動装置。そは空動なり。

だが、「中は空洞(うつろ)」でもある。少なくとも二人、必要なのだから。

見方を変えれば当然に、これは観客を必要とする行為だ。拡張すべき社会が無ければ、何もしていないに等しい。観客の居ない舞台には、何もない。スタァ、アイドルとして生きる事は、自分の身体を以て舞台を完成させる事だけではなく、その舞台を人々に愛される事を含んでいる。

だから、我々は舞台も選ばなくてはならない。もちろん、世界の動きは、この舞台同士の垣根を限りなく取り払い、全ての芝居小屋を破壊して市街劇と野外劇にしようとしているし、見方を変えれば全ての街は舞台になろうとしている(劇場版レヴュースタァライトやピングドラムにおける地下鉄や街のように)。しかし、私たちは誰もが一つの基準で測られるべきではない。だからこそ、演目に、役者にあったハコを用意しなければならない。私の舞台のための、私の観客。私の舞台のための、私の競演。「二つのワタシ 中は空洞」(「天地創造すなわち光」より。)

だから、スタァには共演者が必要だし、愛には愛されるものが必要だし、ワタシにはワタシを見る者が必要だ。「申し訳ないが、つねにひとり以上、必要なのだ、語るためには。それには複数の声が必要なのだ」(デリダ「名を救う」より)。世界を細分化して、ワタシのための舞台を、観客を、共演者を作成するために、自らを筋書き化する事。ワタシを作成し、ワタシを見る者を舞台に呼び寄せる事。何も難しい事ではない。自分を語る事だ。ナラティヴであること。もっと簡単に言えば、Vtuberをイメージすればよい。そういえば我々が黙視しているものはバーチャルスターなのであった。

何人も語る事無し

とはいえ、ここまでに語ってきたように、ワタシをワタシ化して天地を創造しバーチャルスター(あるいはスタァ)になり、舞台の上で光り輝くという生き様を、全員がなるべきではない。

神楽ひかりは愛城華恋のファンになる事が恐ろしいと言った。

スタァは舞台の上で戦い合うし、世界は芝居小屋の、ライブハウスの壁を取り払っていくので、負けてファンになる者も含めてどんどんとスタァ候補の戦える者は減っていく。スタァに、アイドルになれない者が全て死んでいけば、生き残ったスタァやアイドルの立つ舞台はない。スタァを、アイドルを支える観客がいなければならない。世界という一つの舞台が佳境になればなる程加速度的に増えていく「スタァになれなかった者」は、生き残るスタァを支えなければならない。スタァに、アイドルになれなくても推す側としても生きていける…そうした世界があるべき姿であろう。これは第1章バーチャルスター発生学で引用した記事とセットの議論だが、既にここにまとめている。

さて、しかして観客は、「観る者」である。語る事が大事なのではない。見る・観る・視る事、そのためにいる事、舞台に立たずしてインタラクティブである事。語るな、見ろ。何人も語る事無し。

一人の新たな客を引っ張ってくるくらいなら、自分で3回見た方が、「推す」事は出来ている。だが問題は、そうして劇場にいるためにも、観客でいるためにも力が、(卑しく言えば)金が必要だという事…そして(もうこのエントリーで散々書いた事だが)力を得るにはスタァ性が必要だということだ。推すには、推す力を得るには、自分も何らかのアイドルにならなければならない。だが、これはアイドルになれない者の話だったはずだ。我々は石油王にもなれない。

それにしても、推す者たちが憧れる存在、「石油王」のなんと悲しい響きか!インターネットミームであるならザッカーバーグや「お金配りおじさん」などでも良さそうなところが、よりにもよって石油王…未来のためにならないものしか持たず、何かを生み出す事が出来ぬ、燃えるためだけのもの…無用の王にして、「薪の王」だ。アイドルになれなくても力がある存在としての憧れ表す際の、奇しくも的確な表現であろうか。

ともあれ、石油王にすらなれない者は、自分で劇場を維持できない者は、助けを呼ぶしかないのだ。「お前もこの劇場に来てくれ」。だから推す者たちは、魂をインターネットにさらして派手な言葉で推すべき対象を褒める。強い言葉はバズを呼び、バズは推しの評価を呼ぶ。なるほど、これは貧者のレヴューだ。

いや待て、つまりこれは、レヴューが始まっているという事は…私たちはスタァになれなくても、今再び舞台の上に立たされているという事ではないか?言葉の力による戦い…しかし一度は敗れた者達の、舞台を降りた者の戦い…この戦いを無意味とは断じないが、それにしてもスタァ性から遠く離れた事よ。そしていずれ、この戦い自体が、システムごと葬り去られるだろう。ここまでの流れで分かる通り、垣根を取り払われてサロンもなくなってゆけば、そもそも発信力自体が敗れた者からはく奪されるようになっていくからだ。

その言葉に付くいいねやRTに意味はない。ただ本物の拍手を交わせ。

何人も語る事無し
何事も語る事無し
ただ、昨日という閉ざされた暗闇に
ただ、今日というほんの一瞬の閃光に
ただ、明日という、光待つ暗闇に、劇場に

ミッシング・リンク

僕がこうして語っている事は、言ってしまえば「世界からの愛され方の格差は拡大し、愛されない者は語る資格がなくなり、なけなしのお恵みだけで何かを推す生活になるだろう」という潮流の予言だ。「思ってたのと違う」未来がくる。連鎖(つながら)ないわたし。ほら、今消えたわたしが、生きている。

期せずしてこのエントリーはこれまでの上記マガジンの続きとなった。「数多の者は生産性を、意味を、失っていく」「それでも、それらの者も、わずかに許された中で、他を推す事だけで未来を作れる」という未来だ。さぁ、劇場へ…。つまりは「書を捨てよ、街へ出よう」の寺山修司まで戻ってきたかもしれない。そこからのJ.A.シーザーを、ウテナを、そしてレヴュースタァライトを経て、改めて。

ただ、明日という、光待つ暗闇に、劇場に。

↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。