呟きもしなかった事たちへ_No.37(2022年7月号)

※コンセプトは創刊号をご確認ください。ぼーっとする文章が続きます。バックナンバーはこちら索引もあります。

先日、ガスコンロが壊れる夢を見た。何とか自分で直そうとガスコンロを分解していたのだけれど、あのパーツ知識はいったい何だったのだろう。

今月も、呟きもしなかった事たちへ。

ふるさと

飲み屋のカウンターで隣になった男女のカップルがいて、楽しくお話しさせていただいていたのだけれど、女性の方が彼氏に向ける顔に何か見覚えがある気がしていた。しばらくして女性の方の出身が分かった瞬間、「ああ!道理で!」と思った。

自分が昔付き合っていたパートナーと同じ出身だったのだ。顔つきが似ている訳ではないが、仕草がどうにも似ていた訳である。出身が一緒だと、話し方のイントネーションも当然似ている訳で、話し方が似れば仕草も似るし、そうするとそういう表情にも似たものが出るのかも知らない。

とはいえ、本当にそういう郷土性があるのかは知らない。いわゆる「知らんけど」というやつだな。

ピカソ

箱根彫刻の森美術館のピカソ館に、キュビズムに関してのピカソのインタビューの引用があった。訳文にしっくり来なかったくせに原文を暗記できなかったが、混ぜていくと確かこんな感じだったはずだ。(今度ちゃんと確認に行かなくては)

一枚の絵はcut offするしかなく、assemble by the indication by the colorされるべきだ。ただそうしようとする(in order only to)と、彫刻が出来上がる。

僕自身はピカソはすごく分かりやすい絵を描いていると思っていて、「見せてぇもん全部ぶっ込むために再構築するとこうなっちまう」でしかないと思っているんだけど、in order only toという表現にやっぱりなと思った。ただし「見せたいもの」と僕が表現していたものがピカソにとってはindicationだったという点はなかなか面白いし、今後真面目に考える必要があるなと思う。(プランとしては、「切り抜き」というV文化とこのcut offとassembleについてを論じ、そこから人間全体の対話を論じたい)

金沢21世紀美術館のピカソ収蔵品がすごく恣意的で、若い頃からのピカソの好きな女性の絵が多く集められてるのだけど、比較して見ていくと、「この人の、ここが、好きなんですわ〜!」という圧が強い。コブラの寺沢さんがお尻描きたい星人なのが明らかなレベルだ(ピカソ、明らかに性癖が変わっていっていく点も注目だ)。そうして、写実的なことより、見せたいものを全部見せていく結果ああなるんだろうな。

ブロックメモ

ホテルとかに置いてある、正方形で、付箋なわけではないブロックメモ。昔は何がいいのかよく分からなかったが、今では職場でも愛用している。

付箋ほど小さくなく、その気になればバインダーに挟んでおけるし、机に置いて目立つサイズで、なによりそれなりに書き込める。一方で、いらないなと思ったときに捨てるのも容易だし、小さいし一枚一枚剥がせるのでノートみたいに並べ直しが大変という事も無い。

しかし、便利な割にはホテルで使うシーンがイマイチ想像できない。上記のような仕事で使う感覚が、ホテルにいるという時間の中では発生しない(ホテルで仕事をバリバリやるなら別だけど、そうでは無いし、そういう場合は大抵出張用のノートとかがある)。ブロックメモといえばホテルという感じがあるが、あそこでは活躍できない。配置転換してあげたい。

貧乏舌

6月は松山に旅行に行って、随分とおいしいものをたくさん食べたのだけれど、最終日になって「別に体調が悪い訳でも無いし飲んでも良いのだが、つまみをどうすればいいか分からず、結果お酒も入らない」という状況になった。困りながらスタンディングバーにとりあえず入ったところ、メニュー表に「ポテトフライ」という文字があった。

もしやこれか…?こういうジャンクなものを全く食べないで4日もいたので何かが分からなくなっているのか?と思い頼んでみると、果たしてその通りであった。別段何がうまいという訳でもないのに、ちゃんと酒が進むようになり、元気が出て夫婦の会話も弾んだ。

貧乏舌、というか体が貧乏なんだと思う。贅沢だけでテンションを維持できない。

かき氷

いままでちゃんと、カフェのかき氷というものを食べた事が無かった。随分前から何だか先鋭化している事は聞いていたのだけれど、縁遠い存在だったし、そもそもフックとして「じゃぁ食べてみるか」となるだけの理由がなかなかなかった。酒が飲めるわけではない、それだけでダラダラできるわけではない、氷を食べたいという気分にならない、そもそもカフェ巡りもしない(カフェ行くくらいなら家にいるか飲み屋に行くかしてしまうし、街中での時間つぶしも別の事をしてしまう)、要はソースなだけな気がする、なんとなく終わった後受け皿がビシャビシャになっているビジュアルが嫌、等々…。

ところが、松山を旅行した際に、Dienst Doll(ここは本当に良いメイドカフェバーなのだけれど、その点については後日別に触れる)の「しな」さんというかき氷ガチ勢にお会いした結果、松山にもいいかき氷を出すカフェがあるという情報が入った。今回は旅行中に時間もある、街も狭いのでそこに行くための時間もかからない、昼酒と夜酒の間の酔い覚ましに良さそう、何よりこういう機運だ、行ってみようとなり、果たしてenowaのピスタチオかき氷を食べた。

シンプルに美味い、というのが感想で、濃いソースが冷たくも口の中で溶ける氷の力で広がる。クッキーを冷たいお茶で頂いている時のような、味の広がり方と口の中の水分の広がり方が面白い。なるほど確かにかき氷にしかできない事だ。冷やすことと加水する事で濃すぎる味でも食べやすくなるのはカクテルの感覚に近いとも思われ、これは色々食べて通になろうとする人もいるだろう。腹にたまらないのもよい。

とはいえ結局受け皿はビショビショになったし、正直自分がハマる感じはしなかったのだけれど、良さは理解は出来た。また、どういう時なら行けそうかもわかった。今後人生で選択肢に入るようになって良かったと思う。

料理

松山には瓢太というラーメン屋があって、これに嫁がハマっているのが松山に何度も行く理由だった。

このラーメン屋はおでんも酒も提供しているので、行くと必ずおでんで酔っ払って締めで食べていたのだけれど、今回は日程の都合で昼に行きいきなりラーメンを食べた。すると今までもうまいうまいと食べていた以上に、しらふなので味の構成要素が分かる。

ははぁと思い東京に戻ってきて再現を試みたところ、かなり似たものが出来た。さすがに本家に敵うものではないが、60-70点位はあげてもいい。こうなるとこれもう流石に四国まで行く必要は無いだろうというレベルで、自分で自分に驚く。こういう事が出来るのが、料理をやっていて良かったな事の一つではないだろうか。もちろん100点を食べたければ四国に行けばいいのだけれど、そこまでしなくても満足できるようになった訳で、0or100ではない、間の選択肢があるという事。「料理なんてできなくても、おいしいものが食べたいなら外食すればいいじゃん」ではない豊かさを得ている。自分が料理をする事の意義を再発見できる。


↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。