見出し画像

働く面白さの格差

業務の格差は、その賃金と同等かそれ以上に面白さに格差が生まれているのではないか。その中で働くこととは何か。

それは、遊ぶように気楽に、踊るように真剣に、ということではないか。


世に面白さは溢れている

会社で働く…と一言で言っても多様な世界ではあるが、ある程度の人数(少なくとも複数人数)で協働し大きなこと(少なくとも一人では行いにくいこと)を実践し、社会への貢献と仲間や得意先からの信頼と評価を受けながら賃金を受領する行為には、今記載した通り賃金以外にもやりがいと面白さがあると言われている。

思うに、以前はこの「面白さ」はかなり独占的なもので、会社とか、そうでない場合は何らかの組織・サークルを組成しないと得られないものが、いわゆる「やりがい」というものを醸成していた(そもそもサークル的なものも会社由来のものが多かった)。ところが、社会への貢献や仲間からの評価に関しては、現代では個人でも様々な方法で得られるようになった。SNSだろうと、ゲームのオンラインプレーだろうと、人のつながりは比較的容易に作成でき、また自分の作品を公開することもハードルが下がり、私たちは社会とつながり評価と信頼を受けることをかなり簡単に出来るようになった。「面白い」ことは会社(および会社環境)が寡占しているものではなくなった。

もちろん、友達と飲むとか、スポーツをするとか、そうした消費としての「面白い」が変わった話ではなくて、創造・制作・協力・そして労働などの属性に潜む「面白い」は会社だけではなくなった、ということだ。

面白さは溢れており、会社以外のオルタナティブが発見され、結果会社のために働くことの魅力は薄れている層がある(全員ではない、ことに関して=格差が生じていることに関しては後述する)。

これに関しては、おそらく世代間の差がかなりある気がしている。直感的には40代と50代で、会社以外のオルタナティブな面白さに気づいているか否かが大きく変わっている印象がある。「会社で働くことは面白いのだから、どんどん働けるはずだ」という感触の有無。ワーク・ライフ・バランスが10年くらい前から急にうたわれるようになったのもそういう流れではないか。

ところで、オルタナティブな面白さがある/ないに関係なく、会社で働くことの面白さは減じていないだろうという指摘はあろうし、もっと言えば社会が進歩して会社で働くこと自体が発展して面白さも増しているはずだという主張もあり得る。そしてここに、このエントリのような批判的発言に対しての最強の一言がある。

『あと部長・・昔のクルマは楽しかった・・ではなくその時の自分が楽しかったからだと思いますよ。クルマは変わらず楽しいと思います』

「湾岸ミッドナイト」より

念のためにこうした指摘、批判に対していうと、会社の魅力が減じたとは僕も思っていない。問題は、「オルタナティブはある」というexit感は、容易に退職というものを意識させたり、あるいは「やりがい」が決定打にならないと認識されることで、別の点での評価が重要視される…そう、つまり労働と賃金のバランスがフォーカスされたりする点にある。

働く面白さの格差

思考実験として。
1.労働と賃金のバランスがフォーカスされる場合、労働環境の流動性が進めば進むほど、経済合理性が増し、割のいい仕事・割の悪い仕事というものは無くなる。
2.会社が大きくなればなるほど、管理コストは増加し、成果に対しての報酬の割合は小さくなっていく。
3.会社が大きくなればなるほど、個人の仕事が会社を代表する割合は小さくなる傾向にあり、社会への貢献は見えづらいものになる(もちろんこれは会社自体が大きくなることで会社が達成する成果は大きくなるので、能力によっては社会へ貢献できる度合いが変わらない可能性もあるが、会社の規模と社会貢献規模がリニアであるとは言い切れない)

…若い世代がスタートアップを求めていくのがよく分かる※。会社の中でろくでもない管理業務をしていても仕方がない。仮に会社の稼ぐ力が同じなら、少ない集団でいる方が賃金も上がりやすく、そして「面白い」。結果実入りもいいので「面白いように」働ける。ちなみにこういう思想の最北にあるような記事があったので紹介しておく。

※(そして前章の通りこうした思考実験が出来るような「やりがいに選択肢がある」と体感できていない熟年層は、経験とマネジメント力がありながら社会の既存組織への再編入を志すことが多くスタートアップをする人が少ないのもよく分かる。まぁこれは寿命という現実性もあるので括弧書き程度の参考にとどめる)。

そして思考実験の3番は大事なことを抜かしている。会社組織の中には社会貢献に対するコミットメントの強い部署と弱い部署が確実にある。恐ろしいことにこのコミットメントが成果と結びつけられたとき、「面白くない」業務は賃金的な評価も下がっていく(それはそういう社会になるという予感と、そもそもコミットメントの弱い部署=管理・コーポレート的なポジションの多くはAIに取り換えていかれるだろうという予感によって実際にあると思われる)。

今更言うまでもないのだけれど、「面白い」と鍵括弧を付けていたいわゆる「やりがい」と、賃金が減ることが「おもしろくない」ことはそれぞれ独立の不満パラメーターとして存在する。要は、「面白くなく」「賃金が下がる」ので「本当に面白くない」ものになる(これ自体は古くからのブルーワーカー・ホワイトワーカーの階級格差と本質的に変わらないのだけれど、いわゆる近い階級とみなされていたものの間でもそうしたものが見えるようになってくるだろう、と思っている)。

マネジメントの憂鬱

ここから導き出されるのは、会社におけるマネジメント層の業務として、どうしても賃金の話は個人での対応に限界があるので、結局は「やりがい」たりうる「面白さ」を提供することも重要な業務の一つとなろう、ということである。その「面白さ」の提供が、詭弁のようだがフェアなトレードを超えて会社を動かし、コミットメントしているものに貢献し、社会を動かす。

一方で、その「面白さ」の果てに社会が目指すものが何か、を理解している人はいないはずだ、ということは以前記載している。

つまるところ、「面白さの提供」に正解はなく、マネジメントのテクニックはテクニックに過ぎず、戦術はあっても戦略はなく、「個」が思う道に従う人がいるかどうかでしかない。

会社がつまらないと思われたとき、つまらないのは会社ではなく、上司であるお前がつまらないのだ

逆も然りではあるので諦めてはいけない。しかし、なんて恐ろしいことだろう。そして、よく言われる「会社との相性なんて、結局は人」という言説とも一致する。そんな世界に、マネジメントたちはいる。踊ってみせろよ管理職。

そして同時に、序盤で触れた通り、こうした面白さではもはや振り向かない世代もいる。それはそうだ、管理職が踊っていて何が楽しいのか(楽しい場合もあるしそれに賭けて管理職は踊るしかないのだけれど)。面白さは求めておらず、働くことには金銭的な効率しかない人は当然に増えている。そしてこれがさらに金銭と面白さ(そして両方を複合した面白さ)に格差を生む。

というのも、やりがいで動いてくれない社員は、当たり前だが金銭報酬以上の仕事をしない。これが何を示すと言えば、緊急時のマンパワーをやりがいで搾取できないので、会社としてはコストをかけざるを得ないということだ。普段は2人で回るが最悪な時に備えて3人いた方が良い…しかしやる気のある2人であれば何とか回し切れる…ということが出来ないと、普段から3人必要になり、それは要は賃金が下がる。賃金が下がると報酬以上の仕事をしない労働力は更に働かなくなり…負の連鎖が繰り返されている。(実際問題、この連鎖の逆で、高給取りな職業はその報酬が割に合わないくらい働いている人が多い)。

よく分からない負の連鎖が始まらないように踊ることに賭ける…それを現代のマネジメントというのか。そしてその舞台では、面白さの格差が生まれ続けている。

閑話休題:組織としての踊り

古臭い話ではあるのだけれど、こういう踊りをしっかり踊る組織として、会社が持っているスポーツチームが強いとか、そういうのは有効だとは思う。セガサミー野球団を応援しに行く社員は真に「踊る」が、あれはエンタメと面白さを売りにする会社として正しい姿だと思う。

昨今の会社がフリーアドレスかつ快適なオフィスを用意したり、つながりを用意していく流れも、結局はこの問題に対応するためのものだろう。それはそうだ。家でPCに向かうという無限の可能性の中で、働くことは「面白くない」。働くことを面白くしなければならない。

遊びと踊り

つまるところこれは互助会と称した詐欺であり、入会させる組織を維持することで拡大していく形のねずみ講である。踊りが示す面白さは正解がないし、そのうえで働く価値自体すらいずれなくなるのだから。ただ、今を生き抜くためだけの搾取、生きるためにパンを盗む行為。

だが、いずれ無駄になる一瞬であろうとも、あるいは一生であろうとも、その無駄さの中に輝きが、きらめきが、今回で言う「面白さ」が、あればそれでいいのではないか。そうして塔を登り、登った塔を壊し、どこか思ってもいなかった未来へ行くことが出来ればいい…それが人間という気もする。

このシリーズの前回でもそんなことを書いていた。

おもちゃと同じだよね。“やがていらなくなる為に”、それは必要なんだ。

榎戸洋司「少女革命ウテナ脚本集 薔薇の刻印」より

つまるところ我々が行っていることがおもちゃなら、踊りなら、ならば本気で遊ばなくては。「楽しくやろう」、それは前章の通り、昨今の多くの会社が実際に施策として模索していることでもあるが、多くの会社は自分のビジネスやそのために必要な労働を玩具だの踊りだのと言えないなかで、環境を整えるだとかシナジーをもたらすだとか何とか言って体裁を保っている。そうではない。もう一歩踏み込もう。面白くやることが大事で、働くこと自体にはおもちゃと同じで崇高さはない。ただし、ダンスと同じで真面目にやった方が面白い。そう意識したうえで、俺と一緒にやってくれたら嬉しい。それでいい。それ以上は求めてはいけないし、求められたくもない。

これは、僕がマネジメントクラスになってからの、ちゃんとした所信表明かもしれない。


↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。