私の哲学(1)

2024.06.27

とうとう、遡って毎日書いていくスタイルに限界を感じてしまった。
まるで、死んだ魚を「どこが食べられるか」と吟味してえぐっていくような作業になってしまっていて、苦痛を伴っていた。
熟成させておきたいものと、新鮮なうちにいただきたいものが混在して、全部腐らせてしまいそうだった。

約1ヶ月、週1程度の更新頻度で過去を遡るスタイルは、7月からはまた別のスタイルにして試していこうと思う。

というわけで、今日は鮮度の高い記録を試みる。(まだ6月だけど)


この街に越して1年半。ようやく近所の気になるお店の門をたたき始めた。

先日は駅前のブティック。
今日はついに飲み屋さんにきた。というか、今、居る。

おひとり様でどこへでも行けてしまう私の、2年ぶりの1人飲みである。
実は低血糖を起こしてフラフラで、何かを食べておきたかったのがここへ来た1番の理由である。でも、こういう致し方なさそうな理由をこじつけて、ちゃっかりやりたいことをやってしまうところは気に入っている。
他人とタイミングを合わせずに、1人でやりたいことをやれてしまうのは得な性格だと思う。

ハイボールで喉を潤しながら、馬刺しを噛み締めつつ今日を振り返る。


夢見ていた有意義な交流

スレッズでは持論展開おばさんとして君臨させてもらっているのだが、そんなスレッドにコメントがついた。

私が「最近、"どうせ私は不幸、それは変えられない事実"とかって拗ねてる人とは接点がなくなった」という感じのことを書いていた。
そこへ、「そういう人はこういう傾向がありますよね」というコメントがついた。
その人が言ったことを丸々オウム返しするのはセンスが悪いと思っている私は、自分なりに解釈した言葉でもって「たしかに一理ありますね、そういう人ならばこう言う思考が働いていそうですもんね」という具合に返した。

すると、さらに納得を深めたようなコメントが付き、
「こういう意見交換の場が好きです」と感想が付いてきた。
私はそこに大きく共感した!

私はずっと求めていた。何を決めつけるわけでもなく、ただただ自分の思考では到達し得なかった見解を交わせる機会を。だって、たった1人分の人生で全てを知ったようになるなんて滑稽だもの。だから、他人がその人の人生で得た知見や推論を「そういう考え方もあるのか!」と知るのがとても楽しい。
(自己紹介にも書いた通り、高校生の頃から自覚している趣味みたいなもの)

ぐだぐだと妄想話をするのとは違う。言うなれば、、

その見解に至るその人自身の"経験"が垣間見えること。それが感じられると、あくまで経験上の話だと認知できる。
そうなると、決めつけが発生しない。あくまで個人の見解ということが前提に置かれる。
すると、他人の見解をジャッジしようとは思えない。ジャッジとは、正解、不正解を決めないこと。見解を受け入れる余地があること。

このやりとりの上に、最適解を導いていこうとするのがまさに「哲学」だと思っている。
いや、正直にいうと最適解には興味がない。ないほうが良い。最適解を求めて知見を深めることと、知見を深める中で出てきた解が最適であったことは違うと思っている。

ソクラテスが「理想の国家とはなにか」と問うて得た見解を「それは違う」というスタイルとは違う。
生きている間に答えがでないかもしれない、でもそれすら楽しんでしまおうというのが私のスタイルだ。


この趣味を「哲学」と言い出したのはごく最近のことだ。学問としての哲学を学んだ人からすると、これは哲学とは言えないのかもしれない。私ももしかしたら違うのかもしれないと思っている。あくまで「哲学(仮)」という所存だ。
だが、「これは哲学である」と定かにしておかないこともまた趣深い…



(うん、ハイボールで筆が進んでいるぞ。)

本当は、こういう「訳が分からないこと」を専ら考えている。

それを、活きがいいまま世に出してしまうのを憚っていた。訳のわからない活きのいいテンションが落ち着くまで置いておいて、腐りかけになったところを無理やり刺身っぽくしてだそうとし過ぎていた。

ちょっと何言ってるか分からない。
でも、分からないままにしておくって案外楽しいかも。そう思ってもらえたら幸いだ。

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