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今、看取りの途中です

もうすぐ父が死んでしまう。
死ぬことは生きる事の一部であるし、誰もが避けて通れない。
だから、年齢とか諸々加味しても、びっくりするほどのことではなく、季節が移ろう事のように至極自然な事なのだろう。

ではなぜ動揺するか、それは自分の父に起こる出来事だからである。どこかの誰かではなく、私の父に。

出会いがあれば別れがあり、始まりがあるものは、終わりが来る。形あるものに関しては、永遠に不変と言うことは難しいことだと思う。

先ほど動揺という言葉を用いたが、思いのほか落ち着いている。母を10年前に亡くして以降、父と暮らしているうちに積もった時間、その間に起きたことや交わされた言葉で、父への諦めがあり、美しい親子愛などは私たちにおいては幻想だと痛感していたからでもある。感情のままに、傷つけるとわかった上で言葉のぶつけ合いもしてきた。それらを通して別れの準備をしていたのかもしれないとも思う。いなくても生きていける、いないほうが楽、そんなことを実感しながら、お別れの準備をしていたのかもしれないな。

病気が分かった時には、手の施しようがなかった。余命半年。ステージ4の癌。
大きな病院への紹介状をもらった。タクシーに乗って1人で行って来なよと言うほど冷め切った親子関係ではなかったため、付き添う。できるだけ優しくしようと思うが、老化からくる頼りなさ、それを隠すためなのだろうが父の横柄な態度、それらにイライラしてしまう。

診察当日に入院ということになり、早々に私は帰される。さすが大病院、一階にみんな大好きなカフェが入っている。付き添いなのか、自身の通院なのか、昼時なのでパスタなど食べている人もいる。今度はアレを食べよう…。その時に食べれば良いのに、自分は空腹を感じて居なかった。ならば中毒と言っても過言では無いほど好きなコーヒーをテイクアウトでもすれば良いのに、私自身ももう普段の状態では無くなっていた。緊張、悲しみ、色んな事の渦の中で私ももがいていたのだと思う。そういう日々がまた始まったのだ。

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