羽衣の家 天女の巻 1-4 (修正版)

第一章 乙鶴

応安元年(1368年) 世阿弥(鬼丸)5歳
四、大和川

垣内{がいち}の庭での稽古を終えた鬼丸を含む七人の子供たちは、「川へ行く」と言って、結崎大明神の四社のひとつ、糸井宮の裏を抜けて北に進んだ。細いけれどしっかりした踏み跡が、子供たちの背丈より高い荻の原の間に続いている。
「この道からはずれると、はまると抜けられない底無し沼があるから、絶対荻の原に入ってはいけないよ。」
十歳のステが鬼丸に教える。
「大丈夫だよ。私たち手をつないで行くもん。」
と五歳のオユと七歳のツルが鬼丸の手を両側から握っている。

荻の原を抜けると大和川沿いの良く踏み固められた道に出た。川は水をいっぱいに湛えて緩やかに流れている。鬼丸は午前中に清次と二人でこの川を橋で越えていた。少し下流にその橋は見えている。母に連れられて淀の川と呼ばれる大河を船で下ったこともある鬼丸には、橋から見た大和川はさほど大きい川とは見えなかった。しかし、今この少し小高い川沿いの道から、草の生い茂る河原の向こうに大和川の流れを見ると、水の流れがぶ厚くて、向こう岸は遥かに遠く感じられる。

子供たちは年長のステを先頭に橋と反対の上流側に進む。少し行くと桜の大樹が満開の花を咲かせている。緩やかな風に誘われて花の散る下をくぐると、斜め前方に河原に降りる道があり、その先に船着場が見えた。そこには大きな船が止り、荷の積み卸しをする人々と、その荷を運ぶ人々が多く集っていた。

子供たちは船に向って走り始めた。鬼丸が母とともに淀の川で乗った船に比べれば少し小さいが、川舟とは思えない大きさの船が停まっている。

佐保川との合流点の少し上流のこのあたりは、流れが緩く、わずかに北に膨らんで流れる内側の河原を、石で囲んで深く掘り込み、大きな船を引き入れている。洪水の度に修理しなければならないが、ここから盆地を横切って、葛城山と生駒山の間を抜ける手前までは、この大きな船を使って行くことが出来る。そこから渓流を下る小さな舟に荷を積み替えて、平野に出れば、またこれよりも大きな船に積み替えて、大和川の大きな流れを北上して淀川に合わさり海へ出る。

海の向こうは西国の諸国や九州、そして唐天竺にもつながっている。

鬼丸も皆について、船に向かって走った。荷物を下す人足たちが激しく行き来する中、子供たちは何か珍しいものがないかと好奇の目をそこここに走らせている。

一人明かに人足たちとは違う身なりの太った男が、大きな鳥籠を抱えて下りて来た。中には小さな赤と緑の毛に覆われた見慣れない鳥が入っている。嘴の上の方が大きく膨らんで黄色い。声を上げて群がってくる子供たちを邪険に払い除けながら、太っちょが
「ほらどいたどいた。」
と声を上げると、どこからともなく奇妙な声がした。

ホラドイタドイタ

キョトンとして動きを止めた子供たちを見て、太っちょは愉快そうに笑い声をあげた。
「ほら。ガキども。そこを開けろ。」

ホラ ガキドモ ソコオアケロ

その甲高い奇妙な声は鳥のものだった。
「おじさん。その鳥。人の言葉を話すのか。」
「これは人の言葉を繰り返す、鸚鵡という珍しい鳥よ。もっともそこは鳥よな。繰り返すのは短い言葉だけ。唐土{もろこし}渡りの貴重な鳥ぞ。お前たちの遊びものではないわ。」

太っちょは子供たちを押し除けて河原から上がって行く。邪険にされながらなお、皆その太っちょにまとわりついている。

鬼丸も皆に続いて走り始めたが、右手に別の人だかりがあるのに、ふと心が引かれてそちらに向った。

本流から分かれた緩く浅い水の流れに、道に咲いた大樹の桜が散り敷いて、流れの淀みは一面が雪のように白くなっている。若葉と共に咲くこの花はひときわ白い。まるで岸辺に降り積った雪のようだ。

しかしその散り敷いた花を破るように、女が一人水の流れに踏み入って踊り、それを大人たちが水際から囃し立てている。女は脚を剥き出し、手には鮮やかな色合いの小さな掬い網を持ち、水を蹴立てながら花を掬おうとしている。大人たちが囃すと女が唄う。

  やれほぉ  やれほぉ
  花かえ   雪かえ
  やれほぉ  やれほぉ
  波よせ   桜よ
  やれほぉ  やれほぉ
  吾子よやぁ 戻れよぉ

女は着物の右肩を下ろして肌をあらわに晒し、裾の端を結んで肩にかけている。大きく動くにつれて乳房が見え隠れする。見ているうちに髪が解けてざらんと下がった。髪を振り乱してぐるぐると回ったかと思えば、身体を止めて頭を回す。

鬼丸は母の乙鶴が人々に囲まれて舞を舞うのをいつも見ていた。唄い囃す人々の中で踊る女を見て、母かと思いこちらに惹かれたのだったが、近付いてみると随分様子が違っている。母の舞は身体を真っ直ぐに立てて、足を静かに送り、ゆるゆると謡う物語に合わせて結界の中を回るものだった。腰の上下動はない。「天の気と地の気を人の身体で結ぶのです。」と母は語っていた。舞姿には気高さがあり、見物衆は静かに拝むような目で母を見ていた。

今、目の前の女は水の中を跳ね回り、腰といい頭といい、一心不乱にぐるぐる回し、胸乳があらわになるのにも構わずにいる。目の焦点も合っていない。取り囲む見物衆も笑いの下の、蔑むような、嘲るような表情を隠しもしない。

その嫌な雰囲気を引き取ってその場から立ち去れば良かったのだが、鬼丸は離れることが出来なかった。舞い狂う女がしきりに「吾子よ吾子よ」と唄いながら呼びかける、その声の悲しさが鬼丸を捕えてしまった。鬼丸から通うそのような気を女も感じたのだろうか、今まで彷徨っていた視線が急に鬼丸に向けて焦点を結んだ。射竦めるように鬼丸を捉えて、
「滋籐{しげどう}丸ではないか。」
と叫んで走り寄り
「母を見忘れか。あら懐しや。」
と鬼丸を抱き締めた。

女の喜びと、それまでの悲しみが鬼丸の心に流れ込んできた。涙が抱き締められた鬼丸の頬にも触れた。
「この三年の間母はお前様を探し続けてきました。狂女となって皆様の憐みを恃み、お前様の行方を尋ねて回りました。噂でそれかと思えば筑紫の国へも行きました。常陸の国へも行きました。全て間違いでした。でも今ここでこうして出会うことができました。やれ嬉しや。この三年の間、お前様はどこで何をしておいででしたか。この三年の間・・・」

「三年の間」とくり返し口にして、女は鬼丸の顔をじっと見つめた。その時には女は正気に戻っていた。
「いやいややっぱり滋籐丸じゃ。お前様と別れたのも、このような真白な花の下じゃった。この桜樹の神様が母に滋籐丸を下されたのじゃ。おお。吾子よ吾子よ。」

再び強く抱き締められた鬼丸は、今度は何やら怖いと感じた。逃げようとしてもがいたが女の力は強く、かえって胸に顔を押し付けられて息ができなくなってしまった。
「さあ。母と帰るのじゃ。参りまするぞ、参りまするぞ。」
女は鬼丸を胸から離すと、今度は手首を強く掴んで引っぱった。
「イタイイタイ」
と高く声を上げた時、誰かが女の手を握り、鬼丸を引き離した。鬼丸は急いでその男の後ろに走り込んだ。

「この子は知り合いの子じゃ。人違いであろう。」

それはジイの家にいた太郎だった。垣内の庭から、見知らぬ男たちの目を避けて、ここまでやって来たところに、この騒ぎに行き合った。引き離された女は、一瞬太郎を物凄い形相で睨んで、その後は声を上げて泣き伏してしまった。
「滋籐丸やあ。滋籐丸。」

この騒ぎにその河原にいた人々は皆こちらに集って来た。太郎は鬼丸を連れてそっと人の塊から外れた。垣内{がいち}の六人の子供たちがそこへ駆け寄ってきた。皆鬼丸を探していたらしい。一番年上の女の子のハチは鬼丸を見つけてへたり込んだ。

いつまでも泣き伏している狂女を、人々が少しずつ遠巻きにして距離を取り始めた時、七歳の男の子のシゲがその女の方にふらふらと寄って行く。他の子供たちはその背中を見ている。背中の先に女は泣き伏している。子供たちはもう何となく感づいていた。シゲが滋籐丸だった。

シゲに声を掛けようとする太郎をステが止めた。鬼丸を含めた六人が
「おじさん。わかってないなあ。」
とでもいうように太郎を見ている。

ふと気がついてハチが尋ねる。
「どうして太郎さんはここにいるの。」
「船に乗って西国方へ行こうと思う。父と母にきちんと挨拶ができぬのは辛いが仕方あるまい。ここでヌシらに会うたこそ幸いよ。ジイ様と越前様に太郎がそう言うていたと伝えて欲しい。そしてこのことは他の誰にも言わないようにな。頼んだぞ。」
と言うなり、太郎は岸を離れようとする船の方に走って行き、際どい頃合いに乗り込んだ。皆あっけにとられて見送っている。太郎は向う岸に向いたまま、他の乗客に紛れてしまった。流れに乗った船はみるみる遠ざかって行く。

シゲは女と抱き合って泣いていた。子供たちはシゲを女の元に残して、結崎への道を帰り始めた。鬼丸は朝からの歩きづめで疲れたのか、歩きながら眠ってしまいそうだ。ステが背中に負うと、安心したように眠りに落ちた。

来た時と違い子供たちは皆静かだ。
「シゲ兄サ、イイナア。」と五歳のオユ。
「もう遊んでもらえんね。」と同じく五歳のカメ。
「寂しいけど仕方ないよ。シゲは幸せよ。」とハチ。
同じ歳のツルは溢れる涙を袖で拭うだけで何も言わない。
ステは背中で眠る鬼丸の寝息を聞いていた。

来た時に通った荻の原の踏み跡へ入ろうとする時、中から二人の見慣れない男が出てきた。一人が子供たちの方に寄ってきて、
「君たちこんな人を見なかったかな。何か教えてくれたらアメをあげるよ。」
と似顔絵を見せる。そこには太郎と思しき顔が書かれていた。
「吾のテテ様に似てるかなあ。」というオユに、
「オユのテテ様はもっと鼻が大きくて目が小さいじゃ。うちのテテ様の方がこの絵に似た男前だ。」とカメが返した。
二人の男は何も言わずに離れて、船着場と反対の橋の方へ向って行った。

シゲと女が垣内の養父母を訪ねたのはもう暗くなろうとする頃だった。養父母は子供たちから話を聞き、そのままシゲがいなくなってしまうことも覚悟していたので、二人の訪問を心から喜んだ。村の者たちが再会の祝いに寄り合い、謡や舞の披露となったが、鬼丸は眠り込んだまま目を覚まさなかった。

翌日は朝から雨が降った。
「庭の稽古はござらぬ。」
とツルジが触れて回り終えると、シゲと女は旅立って行った。鬼丸は要領を得ないまま、昨日出会ったばかりの二人を見送った。

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