羽衣の家 天女の巻 1-2

第一章 乙鶴

応安元年(1368年) 世阿弥5歳

二、結崎{ゆうざき}

奈良の都から南へ四里と少し下ったところに、観世座の母体の結崎の郷はある。

万葉集に詠まれ、西行法師が「見渡せば佐保の河原にくりかけて風によらるる青柳の糸」と詠んだ佐保川は、奈良の都の中、東大寺の北を西に流れ、左に曲がって西大寺の東を南へ流れる。やがて都を抜けてさらに南へ下ると、初瀬川から続く大和川と合流して西へ流れるが、その合流点の南側一帯が結崎の郷だ。

この辺り、大和川には南から寺川、飛鳥川、蘇我川などの小さな流れが次々と合流し、大雨になればしばしば水に浸かる低湿地帯が広がっている。一見薄に似た荻{おぎ}の群生が人の背丈より高く広がり、その中には嵌ると抜けられない沼も隠れている。

結崎の人々はこの泥濘の地のわずかな高みを石垣で囲い、いくつもの小さな集落を形成していた。そしてその集落を一つの郷としてまとめている結崎大明神は、島の山と呼ばれる大きな古墳を奥に祀る形で、糸井宮、服織{はとり}神社、猿田彦神社、大和社の四つの社殿を連ねて、このあたり一番の高地を占めていた。

糸井宮の人々は養蚕や麻の栽培によって糸を紡ぎ、服織神社の人々は応神天皇の頃に呉国より伝えられた錦の綾織を織る。ここで出来た巻絹は春日大社から朝廷に献上されていた。両神社の宮司は、女工たちの育成を担って、それぞれ小さな集落ごとに人々を統括していた。

そして翁舞の伝承を管理していたのが、猿田彦神社であり、これが結崎座である。翁舞は大和に古くから伝わる儀式で、その淵源は遡ることのできる年月を越えて杳{よう}として知れない。春日大社の神事には必ず翁舞が奉納されることになっており、この結崎座の他、円満井{えんまい}座、坂戸{さかど}座、外山{とび}座の大和四座がこれを請け負っていた。

猿田彦神社の傍らにひときわ大きな石垣、といっても城郭に使われるようなものではなく、河原の石を精巧に組み合せて積んだ石垣で囲われた集落があり、垣内{がいち}と呼ばれていた。垣内の集落は他とは異り、庭と呼ばれる円形の中庭を取り囲むように、家が建てられている。垣内のジイはこの集落の長であり、翁舞を伝承するこの庭の庭元である。

粘土質の土を入れて踏み固められた庭にはほとんど凹凸がなく、掃き清めれば裸足でも足を汚すことがないほどだ。円形の庭だが、東西南北を四辺とした方形の角に柱を立て、北辺には老松を植え、さざれ石を置いて注連縄を掛けてある。普段は雨に備えて猫仰{ねこがき}と呼ばれる藁で編んだ筵を被せている。

晴れた日に真っ先にその庭に現れるのは、垣内に住む子供たちである。夜明け前に起きて、猿田彦神社から水を汲み運び、家の水瓶を満たすのが朝一番の仕事。そしてこの庭にやって来て、猫仰を除けて石垣に並べ、藁に含まれた水分を陽光に晒す。竹箒で庭を掃き浄めれば用意は終る。

その頃になると他の集落からも子供たちが集まって来て、裸足になって庭に入る。めいめいに老松とさざれ石に拝礼してから、まるく輪になって片膝をついて坐り、年長の子が発声をして皆で声を上げる。今日は六人といつもより随分少ないが、それでも全員が身体いっぱいに響かせて甲高い声を上げた。春の日差しが祝福するように暖かい。

    とうとうたらりたらりら
    たらりあがりららりとう
    ちりやたらりたらりら
    たらりあがりららりとう

「良いか。この言葉はこの大和の国の神さまの言葉じゃでな、決してふざけて変えたりしてはならぬよ。」
普段ジイから言い聞かせられている通り、子供たちは姿勢を整え、神妙な顔付きで、胸いっぱいに吸った息を、勢い良く吐き出しながら、身体いっぱいに謡っている。うるさいジイは観世座と一緒に公演に出かけていて、今夕か明日にしか帰って来ない。しかし、神さまの言葉と聞いて、子供たちも素直にジイの教えに従っている。

だが、神妙なのはここまでで、後はもう子供たちの独壇場である。

    ステは捨てられ鳥居の子
    シゲはもぢゃもぢゃ生えていて
    オユはつるつる
    ツルもつるつる
    カメはまんねん
    ハチは両胸蜂刺され

皆立ち上って踊りながらぐるぐる回り、互いのことを大笑いしながら囃したてた。そうかと思うと、最後はまた神妙に大人たちに習って謡い収める。

    天下泰平
    国土安穏
    萬歳楽萬歳楽

それだけ謡うと、子供たちは庭から飛び出して外へ走り出て行く。こうして庭に集ってその日の奉納をする。そしてやっと遊びに出ることを許される。
「荻の原っぱに入るんじゃないよ。底無し沼の妖怪に拐われるからね。」
母たちの言うことなどいつまでも聞くものではないが、去年も一緒に遊んでいたイチという子が荻の原で遊んでいるうちに姿が見えなくなり、それきりになってしまったから、さすがの子供たちも今は荻の原に足を踏み入れない。

今日の垣内の庭には、限られた数人しかいないが、本来はどんな子供でも出入りが許されている。結崎郷の子供はもちろんのこと、明神四社の祭礼にやって来た他国他郷の芸能者の子供たちも一緒になって遊ぶ。「とうとうたらり」の呪文だけゆるがせにしなければ、大人たちが何か咎めるというようなことはない。その後はそれぞれの親から教えられた芸能合戦になることもあれば、互いに真似をしたり教え合ったりすることも多い。時には他国の珍しさに誘われてその一座と共に郷を出る者もいれば、翁舞にひかれてこの地に留まる者もいる。

もっとも歩き方から何から制約の多い翁舞より、飛んだり跳ねたりする曲芸や、動物の物真似、或いは琵琶法師のような語り芸、曲舞の音曲などの他芸の方が、子供たちにとっては圧倒的に面白い。

それでも中には翁舞の神聖な雰囲気を好む子供も、一定の割合でいるから不思議だ。そういう子供たちは、郷内の子供のいない家や、親しくなった子供の家に寝泊まりして、二年三年と冬を過ごせば、いつしか結崎の子となっている。秋には子供が郷に溢れていたりしても、病気で冬を越せなかったり、突然行方知れずになったりで、春には二割くらいがいなくなっていることもあり、ちょうど良い塩梅を保って、翁舞の伝承は長い年月を過ごして来た。

子供たちが庭から姿を消したあと、朝から入り会いの山に入ったり、蚕の手伝いをしたり、川で漁をしたり、その季節ごとに色々の仕事をした大人たちが、食事を終えて庭に集まる。

翁舞を伝承する大人たちの世界となると、子供たちの世界とは一変してしまう。稽古の庭に入ることが出来るのは、翁舞の伝承を認められて、垣内に居をあてがわれている三十人ほどの男たちだけだ。それ以外の男たちや女たちは、庭を取り巻いて見学することは許されても、庭に入ることは出来ない。

皆それぞれ、やってくると注連縄をかけた老松とさざれ石に拝礼をして柏手を打ち、しばらく舞の構えに瞑目して集中を高める。

垣内の住人たちの中には観世座に加わっている者が多く、清次一行が峰入りから戻って、西大寺の勧進興行をしていたここ十日ほどの間、この昼の稽古に参加する者は十数人であった。

ジイのいない中、留守を預かっていたのは、四十半ばのツルジだった。細身の長身で髪も黒い。

「それでは今日は千秋楽の式をやってみよう。翁はおヌシ、三番叟{さんばそう}はおヌシ、鼓は・・・、笛は・・・」

一通りの打合せをして、笛の吹き出しに鼓が先を競って用意を整え、一番の座付きを頭取りに据えて、掛け声を揃えて打ち始めた。

    とうとうたらりたらりら
    たらりあがりららりとう
    ちりやたらりたらりら
    たらりあがりららりとう

ひと口に翁舞と言っても、場所と時節によって異なる式次第で演じられ、場合によってはその日の即興で言葉を紡ぐ部分もあるなど、決め事の子細も多様である。いざ祭りとなれば、翁を勤めるのは長老に決まっているし、囃子も自分の得手の道具に取りつくことになるが、普段の稽古では誰もが色々な役柄を交代で担って、舞台上の全てを全員が心得ておくようにする。

日が中天にかかる一時{いっとき}ほどの間、結崎の垣内の庭は、翁舞の稽古の声と音が響く。しかしそれは文字通り日輪が見えている日に限られる。雨が降ったり、日も見えないどんよりとした曇りの日には、皆それぞれに過ごす。

結崎座の翁舞は春日大社の庇護を受けている。結崎の郷から納められる巻絹の対価として相応の食料の他、翁舞伝承のための保証があるため、この郷は田畑に縛りつけられて年貢を納めなければならない近隣の農村よりも豊かな暮らしを享受している。それは同じ芸能者やその他の非人たちと比べれば、余計に際立っていた。中でも垣内の住人たちには豊かさが保証されていて、他の集落の者たちは競って翁舞伝承者の資格を得ようとした。

逆に言えば、今垣内に住んでいる者でも、祭礼の舞台で致命的な粗相があれば、容赦なく垣内を追われることになる。祭礼が近いにも関わらず雨が続いたりすれば、皆のそれぞれの稽古は、悲壮感さえ漂うこともある。

だが今日の稽古は、夕方に清次たちが成功を収めて帰って来るとの知らせを受け、満開の桜を長閑に照らす穏やかな日差しもあって、のどやかに浮きたっている。

皆を指示するツルジの声も明るい。

「祈祷の謡はもっと充分に息を溜めてから声にしなさい。先を焦ることはない。」

翁に指名されたモズは三十そこそこで如何にも若い。艶のある豊かな声に将来が楽しみだ。

  天下泰平
  国土安穏
  こんにちのご祈祷なり

稽古の場とはいえ、モズが翁を舞うのは初めてである。動きが複雑で舞いでのある三番叟ならば、これまで何回も指名されて得意としていた。烏跳びと呼ばれる跳躍などは、見所から驚きの声が上がるほど軽やかに宙に舞った。ツルジなども、これなら祭礼本番でも使えそうだと密かに思っていた。

しかし翁に指名されたのは今日が初めてである。モズは翁の謡の難しさについては、何となく感じていた。案の定祈祷の謡の部分でツルジから声が飛んだが、その後は何とか謡い進めることが出来た。

モズは足が効く質で、舞には自信があった。三番叟のみならず、千歳をやらせても実に勢いのある足遣いで、翁登場前に魔を祓う役割を充分果たしていた。しかし翁之舞はどうだろうか。先達が舞うのを見ていると、型も少なくて、それをなぞるだけなら、さして難しいとも思われない。

  そーよや〜ア〜アー

寿福を込めた高く張った声を身体いっぱいに引くと、それまで急調子だった三丁の鼓も、頭取りの知らせを受けて大きく緩やかな流れとなり、「イ・ヤーーーー」と頭{かしら}を大きく打つ。両手を大きく横に広げて、広幅の装束の袖を大きく垂らして立つのは翁舞の特色である。モズが構えるとその大きさは若い活力と相まって、辺りを圧するような力の膨らみを見せた。

しかしそこまでだった。両手を広げた構えのまま鼓の掛け声と打込みに合わせて、足ひと足を力を込めて送る段になると、思ったよりも鼓の間が大きい。早めに詰めてしまって鼓の手を待つまでの間に、張り詰めた気は萎んでしまった。だめだと思ったモズに、ツルジは何も言わない。そのままずるずると最後まで進んだが、型をなぞっているとも言えない不本意な出来となった。

ツルジは、鼓の翁帰りの手に送られて戻って来たモズを呼んだ。
「初めてにしては上々よ。翁之舞はそう簡単には行かぬよ。私とてまだまだ思うように出来ぬ。ジイの生きている間にしっかりと見ておかねばならぬなぁ。」
続けて三番叟の舞となったが、こちらはツルジのすぐ下の手練れに割り振られていて、何事もなく進んでゆく。要所要所で笛と鼓に、ここはこう、ここはこうと教えているような舞であった。

モズは幼い頃から見ていた翁之舞が、これ程思うように出来ないものかと呆れていた。昨秋の祭りの時に、「試し」に挑んで垣内に居を得てからこれまで、あらゆるものが輝いて感じられていたが、初めて意のままにならない陰りを感じた。だがそれで落胆した訳ではない。むしろ、先人の培ったものの大きさを知り、ますます翁舞が好きになっていた。

***

ジイが清次を除く観世座の一行を引き連れて、結崎へ戻って来たのは、その日の夕方も七つ時を過ぎた頃だった。

西大寺を正午過ぎに出て、佐保川沿いに南に下り、大和川の手前で西へ迂回して、斑鳩と飛鳥を結ぶ街道に出て、大和川にかかる橋を渡れば、ほどなく結崎の郷である。荷車を牛に牽かせての道中は、春の好天もあって花を眺めながらののどやかなものであった。猿田彦神社で帰還を報告し、牛と舞台道具、勧進興行で得た米や銭を納めると、その場で宮司から皆に銭が配られた。

「清次はどうした。」
と尋ねる宮司に、ジイは今朝方の西大寺での出来事を話した。
「いずれにしろあの子供は清次が面倒を見ることになりましょうて。」
傍らで聞いていた一座の者たちも
「さてあの清次がどんな顔をして子供を見るのやら、少し楽しみじゃのお。」
「乙鶴はそれで何時頃この郷へ来るのかしらん。」
「あの乙鶴の子であれば、さぞかわいらしかろう。良い稚児役者になるのではないか。」
など口々に騒ぎたてる。
「皆の衆。そのような次第ゆえな、今宵はひとまづお帰りあれ。留守を勤めたカカ様方をよおく労りなされよ。秋には赤子で賑やかにしてくだされや。」

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