羽衣の家 天女の巻 0-2end

序 2/2

至徳元年(1384年)5月18日 世阿弥21歳

かたわらで見守る観阿弥を始めとする一座の者たちは、当然のことながら曲舞の構造を知悉している。ここまでは詞章の一句一句の流れ全体に、決まりの音律が乗っていく、いわゆる拍子に合わない謡であるから、言葉の巧拙に差異こそあれ、三郎ならずとも何とかなると思っていた。即興での所望を受けて観阿弥が逡巡したのはこの先である。

そしてここからが曲舞の本体であり、そもそも都鄙の見所の輩を夢中にした肝腎要の部分である。この部分をクセといい、上の句七音下の句五音を、八拍の表裏十六粒に割付けて謡う、いわゆる拍子合{ひょうしあい}の謡となる。

もう少し詳しく言えば、基調となる七音五音の一節のうち、上の句七音を一拍の前から四拍半までに配し、下の句五音を五拍半から七拍半までに配る。ところが詞章は必ずしも七五ではない。例えば上の句が七音に欠ける場合、普通は始まりを後ろへずらす。七音ならば一拍の前より出るところ、六音ならば一拍半のヤの間から、五音ならば二拍のヤアの間から、四音ならばヤヲの間の二拍半、三音ならばヤオハの間の三拍半という具合だが、そこに途中の音に引きを入れたり節をつけて大きく謡ったり、本来使わない一拍、三拍、五拍を使ったりして、その上に下の句も四音だったり六音だったりするのを埋め合わせたり、後ろにはみ出したりしながら破調を作り出してゆく。逆に破調のない、七五七五ばかりの音律では単調になってしまう。

その複雑な作業を三郎は今、即興でやろうとしている。おそらくは言葉と同時に節付けも頭の中で出来ている。節付けもクセの流れの構成で概ね常套で使われる流れがあるから、その旋律に乗せるようにして言葉が浮んでいるのに違いない。観阿弥もおそらくそのような流れであろうと見当はつくが、それを即興で披露するなどとても出来そうにない。

それまで舞台奥の向って右方に座していた三郎だったが、サシの留で扇をいったん膝に上げ、右にとって左膝を立て、足指を返して立ち上がった。

観阿弥は息を呑んだ。三郎の才気は重々承知している。即興での曲舞も、謡だけならばやってしまうかもしれないと思っていた。しかし、同時に舞まで舞ってしまうとは、いくら何でも才に走り過ぎだ。
「おのれ。失敗したらただではおかぬぞ。」
思わず若い頃の激しい気性が、腹の下から湧いてくる。

しかし立ち上がって構えた三郎から、観阿弥に答えるように通ってきた気は、至って穏やかなものであった。普段から若いくせに悟りすましたような男だが、ここぞという時の落ち着きようは尋常ではない。こういう場面で若者ならば持っていそうな意気込みさえもない。
「まったく。何なのだこ奴は。」
我が子ながら観阿弥もとらえきれない何かが三郎にはある。単に頭が良いとか、人となりに優れているとかいうのではない。

囃子が「ハ、ホン、ヤァー、ホ、ホ、ヤー」と声をかけて、いよいよ曲舞の本体であるクセにかかる。真ん中奥で正面に向いた立ち姿に、見所からはため息ともつかない感嘆の声がわずかに上がった。身体からゆらぎが立ち昇っている。それでひとりよがりで力んでいるのではなく、柔らかく広がっている。美しい顔立ちも合わせて、天女さながらの神々しさもある。

春霞{はるがすみ}
靉{たなび}きにけり久方の
月の桂の花や咲く
(春霞が靉き虚空は天上界の花が咲いたかのように色づいている)
げに花葛{はなかづら}
色めくは春のしるしかや
(なるほど春は色とりどりの花が咲く)
面白や天{あめ}ならで
ここも妙なり天{あま}つ風
雲の通ひ路吹き閉じよ
(何と美しいのか天界ではなくともこの地にも天の風が雲の通路を吹き抜けて行く)
少女{おとめ}の姿しばし留まりて
この松原の
春の色を三保ヶ崎
(天女でさえこの松原を通りかかればその春の美しさに見入ってしばしの時を過ごす三保ヶ崎)
月清見潟{きよみがた}富士の雪
いずれや春の曙{あけぼの}
(月はさやかに清見潟を照らし富士には雪が白く光りどちらも春ならではの美しさを湛えている)
類ひ{たぐい}波も松風も
のどかなる浦の有様
(波も松風も比類なくのどかなこの浦であることよ)

三郎の謡を詳知しているかのように四郎は大小の鼓の手組みを入れて行く。始まる前に二言三言言葉を交したのは、打切りの後の出の謡が何の間になるかの確認であった。「クセの出はヤ」と聞いたので、打切りの最後に「ヤー」と声を加えて「△{チョン}」と強く大鼓の手を加えていた。しかし、一度謡が始まってしまえば、その下の句の運び方や息使いで、次の上の句の音数を大方わかってしまうようだった。幼い頃から修行を共にして来た二人ならではの離れ業である。

ここまで型通りに舞台を左回りにひと回りした三郎は、左右に袖を掲げて捧げる型をして舞台中央でいったん静かに舞を納めた。ここまでがクセの序段である。

また「ハ、ホン、ヤァー」と打切りの声が入り、曲舞の破の段に入る。始まる前に「クセ中の打切りは。」とその有無を尋ねた四郎に、三郎は「ヤヲで。」と短く答えた。これは、クセの序段で打切りを入れて、その後はヤヲの間{ま}になる、という意味である。四郎は、「ハ、ハ、」と声を並べた後、「ヤヲー」と引き「ハォ」と鋭く短かい声を入れた。

その上天地は
何を隔てん玉垣や
(その上、天と地を隔てるものは、この御穂神社を囲う玉垣のようなわずかなものです。)
内外{うちと}の神の御裔にて
月も曇らぬ日の本や
(当地の内つ神、外つ神の末裔である人々は、二神の恵みによって曇らぬ豊かな世を愉しんでいます。)

今度は三郎は右回りに舞台を回る。左へ回るのと右へ回るのとでは、気の巡りが変わってくる。

秋の月の祭りの時、観世座のある結崎郷では男たちが内側に輪をなして左に回りながら踊り、女たちは外側を右に回って踊る。右回りは月が東から南を経て西に回るのを写していて、男たちはこれを迎えるように左に回る。曲舞を舞う女たちは右回りを順方向にしていたが、結崎郷の翁舞は左回りが基本であるので、観阿弥は曲舞を申楽に取り入れつつも、左回りを順方向に作っていた。

いったん順方向を定めてしまうと、逆方向に回るにはより強い意思が必要だ。三郎はその力を正面に集めて収め、また左右に袖を捧げる。

そして今度は扇を広げて胸の前に立てた。これも曲舞の決まりの型であり、ここから破之段は展開してゆく。

「上羽{あげは}は。」と尋ねた四郎に、三郎は「一回。ヤヲハの本地。」と答えている。上羽はクセの中で舞手が一句か二句の短い謡を謡いながら決まりの型をする部分。それが長いものだと二回あるけれど、ここではそれが一回だけで、ヤヲハの本地とは、三拍半から五文字を引き伸ばしてハ拍まで配る場合に兄弟の間で言い交わされた言葉だった。

君が代は
天の羽衣まれにきて
撫づとも尽きぬ巌ぞと
聞くも妙なり東歌
(この地を治めるあなた様の御代は、天人が羽衣で撫でても尽きることのない巌のように磐石ですと、古い東歌でも歌われています。)

三郎が広げた扇を頭上に上げると、堰き止めていた力が流れ出るやうに見える。「数々の」までに、その力を大きく左右に展開して、また中央に集める。

その後はクセの決まりの手組を配って行く。決まりとは言え、二人だからこその息の合わせようがあってこその即興である。

声添えて数々の
赤鳥も飛びめぐり
(その歌声に添えて、赤い鳥が飛び廻り)
富士の高嶺も今
川の流れ水澄みて
民草も楽しむ
駿河の国ぞ久しき
(富士の高嶺も今の世を愛で、川の流れは治世の優れている証として澄み渡り、民草も楽しんで暮らしている、この駿河の国の何と素晴らしいことでしょう。)

三郎は中央に集めた気を正面の前いっぱいの場所に立ち、いったん十分に収めた。赤鳥は今川の旗印であり、今この舞を見つめている九十翁の範国入道が、駿河入部の折に浅間神社に参詣して神託を得て以来の瑞鳥である。「赤鳥」と謡いながらまた右に回ると、この曲舞もこのあたりから急之段となり、正面左の座から身体全体で景色を切り取るようにして前に出れば、最後は「今川」の名前を織り込んで、角の柱に扇を翳して廻り、中央奥で三たび左右に袖を使い舞い収めた。

三郎は正面奥、丁度四郎の前に重なるように扇を打込みながら右膝をついて座し、扇をタタンで両手に持ち、最初に座していた柱右方へ戻る。ひとつひとつの挙措から生まれる清廉な気が人々を魅了していた。四郎とともに扇を腰に収めて退いた二人は、見所に居並ぶ人々へ伺候する。盛んな喝采が上った。

観阿弥は思う。なるほどこれなら舞は曲舞の定型を少しも出ていないから、即興でも舞える。しかし、それでいて詞章の意味を切り取りながら個々の型が生きていて、なかなかに味わい深い曲舞になっている。我が座の舞い手ならば皆すぐに舞えるだろう。その上クリ・サシなどの小段の性格を明確に打ち出していて、今まで自分が作って来た作品より、その形式に合う詞章を選んで作られている。
「藍より青し、か・・」

伺候する三郎に、泰範はもとより、その祖父九十翁の範国、そして三郎と同年輩の嫡男範政も上機嫌で杯を勧めている。宴席は程なくお開きとなったが、観阿弥は泰範の宿所に呼ばれ、三郎は範政の元に呼ばれた。武家と芸能者、境遇は異れどもそれぞれ同年輩の者同士、語り尽せぬ一夜は更けてゆく。

至徳元年(一三八四年)五月十八日。観阿弥五十二歳、後の世阿弥二十一歳。観世座の行く末は揚々たるもののように思われた。


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