羽衣の家 天女の巻 1-3

第一章 乙鶴

応安元年(1368年) 世阿弥5歳
三、垣内{がいち}の庭

翌朝未明のことである。垣内{がいち}のジイもその連合いの越前もまだ眠っていた。家の戸をそっと叩く者がある。耳聡く目を覚ましたジイが音もなくはね起きて戸口を窺うと、
「太郎です。」
と押し殺した声がする。土間に降りるのももどかしく、急いで突っ支い棒を外して男を中に招き入れた。
「こは如何に。直冬{ただふゆ}殿か。」
と遅れて起きてきた越前が声を上げるのに、シッと息を立てて
「追われる身でございます。それがしの名をばお呼び下さいますな。」
と言う男を、二人は奥へ通した。越前が蝋燭に火を灯すと、男の顔が浮かびあがる。

太郎と名乗り、直冬と呼ばれた男は四十を少し過ぎた年廻りで、痩けた頬に目はギョロリと鋭い光がある。背丈は五尺五寸の平均的な高さだが、背中から首にかけて丸みを帯びて小さく縮こまり、どこかすさんだ印象を受ける。

男は、幼い頃ジイと越前の最初の子として、太郎と呼ばれてこの郷に育った。そしてこの郷を出て紆余曲折の末、足利直冬の名を得て年月を経た。三人が顔を合わせるのは五年ぶりであろうか。この五年の歳月はそれまでの三十余年に比べても、重い五年であった。三人はしばし言葉もなく互いに顔を見合っていた。

「この頃はどちらにいらしたのですか。」
と尋ねる越前に、男は途切れ途切れに語る。
「時には吉野に。時には石見に。また時には箱崎に。しばしば清水{きよみず}に参籠しておりました。何とか宿願を果さんとその機会を狙っておりましたが、肝心の将軍義詮{よしあきら}が死んでしまいました。新将軍には何の恨みもありませぬが、何しろ長年のお尋ね者です。今さら将軍に帰順するわけにも参りませぬ。新しい将軍を討ち果たしてこそ、私を世に立ててくれた義父直義{ただよし}の恩に報い、跡を弔うことになるかと思いまする。」
「仰ることはもっともですが、何しろ老い先短い身です。この母のことを忘れないでいてください。」

その時戸口に人音のして案内の声が立った。まだあたりは真っ暗だが、この郷の者たちの朝は早い。仕事に出る前にその日の昼の稽古の有無、子細を打合せる。
「お早うございます、ジイ殿。ツルジとモズが参りました。」
腰を浮かせる男を目で制して、ジイが応答に出た。
「おお。二人ともご苦労さん。今日は良い天気のようですな。帰って来たところじゃでな。新しい気持ちで初日の式を致しましょうかな。」
「そのことでございまる。昨日このモズに翁をさせましたが、祈祷までの謡は何とかこなしましたが、翁之舞は運びが滑ってしまいどうにもなりませなんだ。私もどこをどう直したものやら分りかねました。今日はジイ殿に翁之舞の部分の稽古をお願いしたいと存じまするが。」
「それならそれで致しましょうかの。モズにはまだ早いが、ツルジ殿にも教えることがあろうでな。」
そう聞いて二人は裏手に回り、庭越しに垣内の家々の者たちにその旨を大音声で触れた。ジイの翁之舞と聞いて、家々のざわめく気配が立った。空に白みが戻って来た。夜明けは近い。
「相触れ申しました。」
「うむ。それでは昼までの仕事じゃな。今日の働きは何か決まっておるかな。」
「お宮にて舞台の道具と、昨日干した舞の衣装と賜り物の装束を整えまする。」
「さようか。それでは吾もそちらに行きまするが、少し遅れますでな。宜しく頼みます。」

ジイが家の中へ戻ると、くだんの男は床をのべて眠っていた。越前が寝顔に見入っている。
「夜動き、昼は眠る。難儀なことよ。心底安心して眠れるのも、ここくらいのものかも知れぬ。眠らせておきなされ。今日の働きは宮でのお勤めじゃ。巳{み}の刻(午前十時頃)には戻りまするよ。」

***

その巳の刻を少し過ぎてジイは戻って来た。意外なことに家には清次{せいじ}と鬼丸がいて、まだ眠っている男を覗き込んでいた。
「奈良豆比古で乙鶴のことを聞き申し、嵯峨野までは無駄になろうと引き返して参りました。」
ジイは二人を見送ったあとの、乙鶴との出会いを話して聞かせた。
「まあよう戻られた。さて鬼丸よ。そなたのカカ様のツル殿からしばらくそなたを預かって欲しいと頼まれたのじゃが、あいにく吾のところには今朝方からこの大きな男が参ってな。そなたはこの清次のところへ行きなされ。」

鬼丸が「宜しくお頼み申します。」と殊勝に頭を下げたところに、
「ジイはおるか。」「ジイ、お帰り。」
と口々に声を上げて六人の子供が飛び込んで来た。ステ、シゲ、オユ、ツル、カメ、ハチの六人はこの垣内の子供たちだ。
「ジイのおらんあいだ、つまらなんだぞオ。」と声を上げたのは一番小さいオユ五歳。年長のステは十歳でシゲは七歳、この三人は男の子で、ツル七歳、カメ九歳、ハチ十二歳は女の子。そのハチが鬼丸とその傍らに寝ている男に気づいてキャッと声を上げると、六人がいっせいにそちらを向いて固まった、その様子のおかしさにジイと越前は声を上げて笑い、つられて皆が笑い出した。

こうなるとさすがに眠ってはいられない。男は仰向けのまま伸びをしていきなり立ち上がった。
「こーらー。人が気持ち良く眠っておるのにお前たちは。」
逃げる子供たちを追い回しているうちに、男も笑い出してしまった。
「ところでおじさんは誰。」とステ。
「この子はどこの子。」とハチ。
「あ、清次もいる。清次だ、清次だ。」と小さい四人は清次に取り付いた。

「おお、三郎か。久しいの。」
「太郎兄{あに}サ。いつ戻られましたか。お元気そうで何よりです。」
「二人は兄弟なの。」
と首を傾げる子供たちに、ジイは話し始めた。
「お前たちはもうこの郷がどんな郷か、わかっていようが。」
「捨て子の郷ダー。」「とうたらりの郷。」「糸取りの郷。」「綾織りの郷。」
「どれも正しいがのオ。何よりこの郷はな、翁舞の郷じゃ。大和の国の神さまの郷じゃ。古い古い神様の言葉を今に伝える郷じゃ。糸取りも綾織りも古いは古いが翁舞ほどではない。それはこの国がな、まだ森に覆われていた頃のことじゃ。その頃は田圃や畑のように人の手で物を植えたり収穫したりすることもしていない。皆、森の果実を採り、獣を狩り、川の魚を獲ったりして暮していた。森は豊かでな、人が少ないこともあったが、それだけで充分幸せに暮していたんじゃ。そんな時に一番大切なことは何じゃと思うかの。」
「狩が上手なこと。」「森に感謝すること。」
「それも大切じゃがのオ。それよりも大切なのは、新しい命を生み出すことじゃ。じゃからの。人の中ではカカ様が一番偉い。それから蛇。」
「蛇、嫌ーい。気持ち悪い。」
「じゃが蛇は何回も殻を脱いで大きくなるじゃろ。昔の人はあれは何回も生まれ変わるんじゃと思ったのよ。蛇の次には蛙。」
「えー。蛙ー?」
「春になったらわんさかわんさか湧いて来ようが。おっと大切なものを忘れていた。」
「私わかる。月。」
とこれは十二歳の女の子ハチ。
「その通り。翁舞はの。田植のことなども舞に舞うがの。一番の大事は命を授かることよ。命は月の雫から生まれるでな。それでな。この郷は授かった命を大事に育てるところよ。今は仏の教えによれば末法の世なのだそうな。戦さがおきる。盗賊がはびこる。命が大切にされとらん。お前たちもな。親が死んでしもうたり、育てられなくなってしもうたり。いろいろあるじゃろ。この郷はそういう子供たちを育てるのよ。」
「それでジイ様は清次とこのおじさんを育てたのですか。」
とこれは十歳の男の子ステ。
「このおじさんは太郎、清次は三郎。二郎も四郎もいたのじゃが、二郎は荻の原の妖怪に拐わてしまって、四郎も急にいなくなってしまった。これも荻の原の妖怪のせいかも知れぬし、商人{あきびと}に拐われたか、どこかの誰かについて行ってしまったか。とにかくある日突然いなくなってしまった。吾も越前もそれでもどこかで生きていてくれれば良いと思うておる。太郎はな、夜通し歩いて旅をしておったのじゃ。それで今まで眠っていたのよ。」
「それじゃ、この子は誰。」
とこれは九歳の女の子カメ。
「これは鬼丸というのじゃ。カカ様は舞舞{まいまい}でな。しばらくこの郷におるゆえ、皆仲良くしてくだされや。」
「それじゃオニだね。オニ。これから庭でお稽古をして、その後は川に行くんだ。一緒に行こう。」

小さいオユとツルが鬼丸の両手を引いて、庭に連れ出した。猫仰{ねこがき}を干して、「とうとうたらり」と謡い始める。鬼丸の声も途中から混るが、初めてなので言葉を間違えた。
「オニ。この言葉は神様の言葉だから違えてはいけないんだ。知らないのに謡ってはいけないよ。少しの間黙って聞いておいで。」
とステに言われて神妙にしていたが、一回終ったところで、いつもはそれぞれに何か謡い出すところ、今度は鬼丸が謡い始めた。

    とうとうたらりたらりら
    たらりあがりららりとう
    ちりやたらりたらりら
    たらりあがりららりとう

「すごーい。一度で覚えちゃった。」
そして七人が声を揃えて謡う。六人はいつもジイに指導されているから、身体いっぱいにそれなりの声を出すのだが、その六人の声に混っても鬼丸の声はひときわ艶やかに立ち上がった。それでいて子供特有の耳障りな響きがない。

「鬼丸と言いましたな。清次の子になりますのか。」
と尋ねる太郎に、清次はバツが悪そうに肩をすぼめ、かわりにジイが答えた。
「子になるというか、おそらくは清次の子よ。お前は覚えておらぬか。清次とよく遊んでおった曲舞舞の子がおったろう。」
「私がこの郷を出たのは三歳の時。その後母様{ははさま}を訪ねて時々来てはおりましたが・・・」

ジイが「もう何回目かのう。昨日の話は。」と言いながら西大寺での話を語っていると、子供たちは既に遊びに飛び出して行き、庭に大人たちの集る気配がする。越前の差し出した握り飯を頬張ると、ジイは庭に出た。清次も続く。太郎は少し遅れて目立たぬように人の輪の後に立った。

翁舞は舞台への登場から、千歳の舞、翁の祈祷、翁之舞があって、翁帰りの後、三番叟の舞を核にして、そこに他の芸能を挟み込んだりする。いつもはこれこれの式という演目を通す稽古が多いが、今日は翁之舞だけを取り上げることとなった。

鼓には志願の三人が座し、その前にジイが立つ。扇を胸の前にして両手を合わせ、上体を後ろに反らせる。空を仰ぐようにして、身体を戻し、今度は両手を真横に伸ばして身体全体で十字を作る。

その時ジイに卒然として思い浮んだことがある。
「そうか。これは月の力を身体に受けて、それを増幅して前に放射する構えだ。今まで何百回もやってきて、今日始めて気付いたとは。子供らに話していたのが役に立ったのかもしれぬ。」

鼓が声を長く引くごとに、一足づつ足を送る。鼓方の息のタメに合わせて力を溜めて、長く引く声の、息の速さに合わせて足を送ってやる。決まりの足数を進めて、足を留め手を下す。そして鼓の手組みに合わせて足拍子を踏む。最初は舞台右方で天の拍子、次に舞台を横断し左方で地の拍子、そして鼓の位が急調子の軽快な運びに変って、最後は真ん中で人の拍子を踏んで、翁之舞は終りとなる。

いつもより一段と壮麗な翁之舞であった。ツルジが指名されてジイに代る。ジイより背丈はあるが何となく凡庸な印象を受ける。それでもジイは上機嫌であった。
「ツルジ殿。概ねその通りでございますよ。今日はまだぎこちない感じでしたが、これから経験を積めば良くなりましょう。」

その後何人か名指されて舞ったが、ジイは「良し。次。」と言うだけだった。
「月の力を受けると言うさきの直感は、吾だけにわかるもの。人に話したとて伝わらぬ。結局この道は稽古よりなし、か・・」
一番若いモズには順番は回って来なかった。

人垣の外から見ていた太郎は、ジイから新たな力が通ってくるような気がして驚いていたが、その見物衆に郷の者らしからぬ風体の者たちが近づくのを見て、静かにその場を離れた。

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