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無計画だったから出会えた「ひめゆりの塔」とその記憶

人生で沖縄を訪れる日が来ようとは思わなかった。全国版の気象情報では同じ括りにされることもある九州に生まれて、行く機会はいくらでもあっただろうに。国内で非日常感を感じるところといえば、沖縄、北海道は筆頭だろう。実際、北海道には15年ほど前に勤めていた会社の同僚と行ったことがあるが、沖縄に行くことはなかった。


降って湧いた沖縄出張

今後もずっと沖縄には縁がないだろうと思っていたら、降って湧いたような出張で沖縄に行くことになった。もちろん、仕事で行くわけだから、観光が目的ではない。当初、お客様との懇親も企画されていて、金曜にお客様先に伺うことにしていたが、コロナの感染者数が増えたこともあり、懇親会の企画は直前になくなった。

沖縄料理の数々

金曜の晩は同僚としこたま沖縄のものを飲んで食べた。

写真にないジーマーミ豆腐がうまかった。一軒目は、ほどほどに二軒目に移動。事前に評判を聞いた店に電話してみるも、応答がなかったので、飛び込みで店に入った。

スパムのユッケ、島らっきょう

この写真の前に、豆腐ようをアテに飲んだ泡盛もうまかったし、黒糖焼酎もいただいた。

ゴーヤビア
豚の脳みそグラタン

白子を固めた感じの「豚の脳みそグラタン」は嫌いではなかったが、箸をつけた時にはもうお腹いっぱい。そのあとの三軒目にも行ったが、同僚との会話は何となく覚えているものの何を食べたか、何を飲んだかはまったく記憶にない。

観光する気満々で、最終便の飛行機を予約していたが、土曜日にどう過ごすかを決めていなかった。

朝、酔いが残った頭で考えた。首里城に行こうかとも思ったが、まだ2019年の火災から復旧していない様子。どのくらい見どころがあるかわからなかった。他には、ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館に行ってみたいと思っていた。戦争について理解を深めようとか、特段、平和を希求しているわけでもなかったが、過去にいくつかの映画で見た沖縄戦のことが知りたかった。遠いだろうと思っていたが、調べるとホテル近くのバス停(牧志)から1時間半くらいで着けそうだった。

40歳代後半まで沖縄に来たことはなかったのだから、沖縄には縁がなかったんだろう。今後、誰かとレジャーに来ることはあるかもしれないが、一人で沖縄のことを知るために訪れることはないかもしれない。

よし、ひめゆりの塔に行ってみよう。

しかし、バスの移動が面倒だった。ちょっと時間を変えて検索すると、違う経路が提案される。乗り換えのバスが時間通りに来なかったら、思ったより時間かかるかもな、そう思って11時にホテルをチェックアウトして、すぐ近くのバス停に向かった。さっそく発車時刻を5分過ぎても、バスが来ない…

バスの発車時刻から8分経ったところで、バス到着。

バスに乗車し、旭橋・那覇バスターミナルに到着。次の便を検索すると、予定していた経路と少し違った検索結果が表示される。前日、飲み食いしすぎた上に、ホテルで朝食も結構食べてしまったので、もう、昼食は抜きにして、バスの乗り換えに集中しようと決める。

実際にこの後、次の糸満ロータリーの近くで下車した後にも、次のバス停を探して歩きまわったり、逆方向のバス停で待ったり、バスが予定時刻に来なかったりした。思った以上に苦労をしたが、なんとか13時ごろ、ひめゆりの塔の到着した。

ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館

ひめゆりの塔の横には歌碑があった。

いはまくら(岩枕)
かたくもあらん
やすらかに
ねむれとぞいのる
まなびのともは

亡くなったひめゆり学徒隊の彼女たちは、今も硬い石を枕にして寝ているのかもしれない。

ひめゆりの塔の手前には、壕があることを初めて知る。というか、彼女たちが隠れていた壕のところに塔を作ったことになる。塔というほど高さはなく横長の石碑がそこにはあった。Wikipedia(ひめゆりの塔)には、終戦直後の物資難時期に建てられたこと、まだアメリカの統治下でアメリカに遠慮して大きなものは立てにくかったことが書いてあった。

献花台横の寄付金箱に心ばかりのお金を入れた後、塔の奥にあるひめゆり平和祈念資料館に入る。雨に濡れて体が冷え、お腹も冷えていたので、まずはトイレに駆け込んだ。どんなに清らかな気持ちになってもクソは出る。だって、にんげんだもの。

最初の部屋

ひめゆり平和祈念資料館は、まず、犠牲になった彼女たちが、誰がどういう生活をしていたのか、どういう時代だったか、どういう授業を受けていて、何を考えていたかなどのパネル展示から始まった。パネルにあった説明で、泊まっていたホテルがある牧志駅の近くに彼女らが学生生活を送っていた場所があることを知る。

生き残った方々のインタビュー動画

2部屋目、3部屋目には、パネルの他に生き残った同級生が語る映像が流れていた。ここでは40分、50分を過ごした。沖縄戦に限ったことではないが、戦争の経験者は、戦争経験を語りたくないという方は多い。ひめゆり学徒隊で生き残った彼女たちに無理やり語らせたこともあったろうし、後世に伝えないといけないという使命感から、頑張ってしゃべった人もあったろう。

彼女らは語る。


最初は、手伝いに行くことに何の疑問も持たなかった、惨劇があるとも思っていなかったそうだ。沖縄以外の地域でも、戦争の後半時期に牧歌的な生活をしていた人は多い。彼女らもそうだった。女性にもできる仕事があると思って張り切って向かった人もいた。後方支援だし、赤十字のマークがあるところは安全だと思っていた方もいた。戦時中に受けた教育から、戦争に負けるなんて微塵も思っていなかったという。

しかし、実態は、悲惨だった。

傷ついた兵士に食事を与える飯上げ(めしあげ)の仕事は、爆撃がある時間にもご飯を用意しないといけない。ご飯が入った樽を運ぶ仕事も命がけだった。何とか食べさせようと飯の入った樽を守って走った。爆撃があっても、樽からご飯をこぼさないよう、樽を丁寧に置いて身を伏せた。それでもご飯を持ち帰った後には、あまりのおにぎりの小ささに「こんなんで生きられると思うのか!」と兵隊から怒鳴られた。

ひめゆり学徒隊の生徒は、看護について学んでいない普通の学生たちだったのに、医療行為と医療行為を助ける作業も行った。

怪我が進行した兵隊からはウジのわく音が聞こえる。大変なのは顔の周りの傷にウジがわいた時だ。耳に入ってしまっては取りようがない。ピンセットすら支給がなかった。助けてあげたいと思っても助ける手段がなく、かかりきりにもなれない。今でも、ウジがうごめく音が耳に残っているという。

手足の切断に立ち会う学生もいた。皮膚を切り、めくりあげ、骨をゴシゴシ切った。最後は引っ張った皮膚を縫合する。何度も見たので手順を今でも覚えているという。

兵隊の糞尿の始末も日常となった。

脳症で幻覚が見え、幻聴が聞こえる兵士もいた。騒ぐ、暴れるは当たり前。最初は脳症ということもわからず、何が起こってるかわからなかった。

助けたい気持ちがあったが、作業を繰り返す中、そういう感情がなくなっていった。

「天皇陛下万歳と言って死ね」と教えられたのに、兵隊が死ぬときには、「お母さん」と言って死ぬことが最初は不思議だった。誇らしくはないんだろうか? なぜなんだろう? と思ったそうだ。

戦況が悪化して、最後には、同級生が目の前で亡くなっていく。「生きるも死ぬも一緒だよ」そう語り合った16歳の同級生の写真を、76歳になっても、持ち歩く人もいた。

生き残ってラッキー! なんてことは考えられなかった。運がよかった、運が悪かったとは考えたくはなかった。死んでしまった大事な友だち、尊敬する友だちに向かって、あなたには運がなかったよね、とはとても言えなかったからだ。

そして、そんなことは戦後になって考えたことだった。自分が助かって初めて、置いてきた友達のことが思い出した人もいた。「捕虜になるくらいなら死んだほうがいい」そう教えられてきたはずなのに、死ぬ方法が目の前にない。針を飲もうかと話し合ったが、それは怖かった。もしそこに、同級生が一緒に死ねる分の手榴弾があれば間違いなく一緒に死んでいただろう。

戦場では自分のことしか考えられなかったというコメントが多かった。生き残ってしまって申し訳ない。潔く死ぬことが大事だと感じていながら、いざ死ぬ場面になると怖さがあった。


最後の大きな展示室

資料館の終わり、一番大きな展示室には、壁一面に犠牲になった人たちの顔写真のパネルがあってプロフィールが書かれていた。展示スペースには、生き残った人たちの作文、同級生たちの作文が並んでいた。ラミネート加工されて、誰でもめくれる形で置いてあった。

とても全部には目が通せない。

パネルのプロフィールには、どんな性格だったか、どんな教科が好きだったか、家族構成はどうだったのか、周りにどんなふうに思われていたか、どんな死に方をしたのか書かれていた。

名前だけで顔写真がないパネルもあった。

17時には、那覇市の中心部に戻りたかったので、バスの時間を確認しつつ、できるだけ、この部屋にいて、作文を読み、疲れたら、顔写真のパネルを見て、プロフィールを読んだ。

長くいればいるほど、誰かの人生がイメージできてしまって、涙がたまった。

平和祈念資料館の展示

悲惨さを伝えることが最大の目的ではないはずだ。悲惨さを感じた後に、人が同じ過ちを繰り返さないことが本当の目的だろう。しかし犠牲になった人を詳しく知ることで、悲惨さがより強く感じられた。誰もが生きたかったはずだった。もっと楽しい会話を友だちと続けたかったはずだから。

展示の仕方として、悲惨さと戦争をしてはいけないという主張が伝わっていたと思う。でも2時間ちょっとじゃ全部を見切れなかった。ギリギリまで館内を歩いて、バス停に移動した。雨に濡れながら、バスを待った。お腹が減っていることに気づき、朝、ホテルのレストランを出る時にもらったサーターアンダギーをかじった。

那覇市内に戻って、沖縄県立博物館・美術館に行こうと思ったが、またバスの乗り換えに悩まされるのも嫌だったので、沖縄県立博物館・美術館までは歩いた。途中、いくつかあった公園をのんびりと通り過ぎて、18時前に、沖縄県立博物館・美術館についた。駆け足で館内をめぐって、沖縄県立博物館・美術館を後にした。

時間があれば、晩飯に沖縄に多いステーキ店に入ろうと思ったが、寄りたい場所があったので、ステーキを諦めて、荷物を預けたホテルに戻った。

姫百合橋(ひめゆりばし)

ひめゆり平和祈念資料館に行った時、ひめゆり学徒隊が通っていた沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校が、ホテルの近くにあることを知った。ホテルで荷物を受け取って、姫百合橋に移動した。

彼女たちがどんな教科が好きだったか、周りの同級生とどんな生活をしたのか知ってしまったので、彼女たちが生活をしていた空間を少しでも見てみたくなったのだ。空港に向かう前に、ちょっと寄ってみた。学校の面影はかけらもなかったが、彼女たちの楽しかった学校生活をちょっとだけ想像した。

姫百合橋から見た学校があった方向

出張の翌日、駆け足で沖縄の経験を知ろうとしたかもしれないが、計画を立てていたら、こんなに無理な移動はしなかっただろう。無計画でよかったと思う。

沖縄の歴史の一部を知って、歴史の現場に行って、当時の学生の生活を想像できた。仕事は仕事で大事だけれど、それ以上に受け取るものが多い、出張になった。


※最後の沖縄グルメ

帰りのゆいレールの車中、搭乗便遅れの連絡メールが入った。夕飯を諦めていたが少し時間ができたのでお土産を買って荷物を預け、空港一階にある「ポークたまごおにぎり」専門店、「ポーたま」に駆け込むことができた。

スタンダードメニューの「ポーたま(米、玉子、ポークランチョンミート(SPAM)、海苔)」と、スペシャルメニューの「島豆腐の厚揚げと自家製油味噌(島豆腐、油みそ、カイワレ大根)」を購入して、空港二階で一人で食べた。「ポーたま」は、都内にも店舗はあるみたいだが、その土地特有の料理は、そこで食べたほうがいい。駆け足で回った沖縄のことを思いながら、沖縄を食んだ。


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のーどみたかひろ
いい歌を詠むため、歌の肥やしにいたします。 「スキ」「フォロー」「サポート」時のお礼メッセージでも一部、歌を詠んでいます。

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