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やれないと思っていたあることができてしまった件

家事が得意ではない。

常々、そう思っている。

しかし、一人暮らしだと洗濯物が貯まれば、洗濯はしないわけにもいかない。別居している息子が遊びに来るときには、最低限、清潔にしておきたいので、息子が来る前に、床も拭くし、トイレ掃除もする。部屋の片づけはどうしても苦手なので、身の回りのものは、息子が来る前に、部屋の隅に押しやるだけになってしまうけれど。

最近では、自炊もするようになった。
在宅勤務にも関わらず、自分のためのお弁当を週3か週4は作っている。


しかし、いわゆる家事の中でどうしてもできないことがある。
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裁縫だ。

うちには、ボタンが外れたまま履いているパンツが何本かある。ボタンがないこと以外に問題がないので、捨てることはない。ただ、そのままではずり落ちて履けないので、ベルトで縛ってごまかしている。いい加減、不自由だし、いつか付けようと思って玄関横のわかりやすい場所に置いてあるボタンが増えていくのも嫌になってきた。


先日、彼女がうちに来た際に、ボタンの付け方を教えてもらった。
しかし、教えてもらうといっても、ボタンに糸を通す順番だけ聞けばよかった。糸を縛って塊を作る「玉結び」と、縫った後に糸を止める「玉止め」は彼女に聞かずにできてしまったのだ。裁縫は、小学校の家庭科の授業でしかやっていない。それが「まずは~」と彼女に言われた瞬間に、「やってみる」といって、玉を作ることができてしまった。

裁縫の技術というのは、自転車のように、体で一度覚えてしまうとできる種類の記憶なんだろうか。ずっとやっていないことができてしまったということはたぶんそうなんだろう。

わかりやすく体を使うイメージがなかった裁縫の一部がそうであるならば、他にも、一度できればやれてしまう動作はあるんじゃないだろうか?

こうした動作を増やせば、もっと生活が楽しくなるだろうか。でも、そうした記憶は、自転車に乗る、泳ぐ、こと以外に使えそうになさそうに思える。もしかしたら、脳内で有機的につながっていて、他のことが上手にできるようになるのかもしれない。でも、自転車に乗ることと、楽器を演奏することにつながりはなさそうに思える。私の場合は、どれも特別うまくできるものがないので、そうした特徴が見えにくいだけかもしれない。

こうした記憶に関連しそうな、ゴルフやスケボーといったことは全然できなかった。両方とも、過去にちょっと練習して、あきらめたことがある。この辺はうまく記憶が形成されなかったようだ。しかし、あることが得意な人には、比較的容易に習得できるのかもしれない。
(今、何も調べずに、想像だけでこれを書いている)

何にせよ、できることが増えるのはいい。

ゲームのように自分のパラメータを覗くことができれば、
「自転車に乗る」「泳ぐ」「ピアノを弾く」
などというラベルがたくさんできるということだ。人生というゲームの攻略に役立つ場面も出てきそうじゃないか。

ちょっと練習が必要で、一度覚えたら、忘れないようなものにチャレンジしてみるのはいいな。あとで忘れるものより、コスパもいい。小学生の息子と一緒にやれれば、息子にも同じ技能が身につくわけだし。一緒にチャレンジしてみるのはよさそうだ。

気になることと言えば、こうした記憶は、何歳になっても、形成されるのかということだ。今、40歳代だが、これが50歳代、60歳代になっても同じだろうか。習得に時間がかかったり、高齢になって習得した記憶は、忘れやすくなったりしないのだろうか。自転車は大人になってから乗れるようになったという話も聞くので、大丈夫な動作もあるかもしれない。

何かにチャレンジする時、これは、一度覚えたら、将来も使えるんだろうか? とちょっと考えてみよう。スポーツというカテゴリにしなくても、手や指、足腰を上手に使うことでできる動作が増えれば、ちょっと周りに対して、優越感を持って、生活できる老後が送れるかもしれない。

できない、苦手だ、と言わず、指先や体を使うことを増やしてみよう。そういえば、折り鶴はいつの間にかできなくなってたな。あれは、同じ種類の記憶じゃないんだろうか。またそのうち折ってみよう。

いい歌を詠むため、歌の肥やしにいたします。 「スキ」「フォロー」「サポート」時のお礼メッセージでも一部、歌を詠んでいます。