見出し画像

赤ん坊の泣き声をうるさく感じるようになってしまった

買い物している時、電車に乗っている時、
赤ん坊の泣き声を(うるさいなぁ…)と感じるようになってしまった。

1歳くらいの時までは、息子もふいに泣くことがあったかもしれない。
(それもよく覚えていない)

息子が5歳、6歳の頃までは、まだ、泣く子を見ても、
(あぁ、大変だなぁ…)
と感じていたように思う。

去年くらいからだろうか、子どもの泣く声を(うるさいなぁ…)と感じるようになってしまった。

昔は、近くで泣く子がいると、子どものお父さん、お母さんにわからないように、顔の表情を変えて、赤ん坊の気を引いて、泣き止ませようとしたりしたこともあった。

電車で子どもが泣くと本当に大変だ。
周りにうるさそうな顔を向けられる。「針のむしろ」なんて言葉は、こういう時に使うんだろう。

実際に厳しい顔を向ける人もいるし、申し訳なさで、誰の顔も厳しく見えてしまう。泣くたびに、電車を降りるなんてことをしていては、いつまで経っても目的地に着かない。ひたすら抱っこして、ゆすってないといけない。本当は、黙って抱っこしていたほうが泣き止む子だとしても、周りへのポーズで、ほらほら泣き止ます努力をしてますよー、くらいしないと、いたたまれない。

赤ん坊を連れて出かけるなよ、なんて、乱暴な意見を言う人もいる。
用がある時、誰でも預かってくれる身内がいると思うなよ!

厳しい顔を向けたり、時に舌打ちまでする輩を見て、文句を言いたくなったことはよくあった。

お前も赤ん坊だったんだぞ!

赤ん坊の泣き声は、自分のつらかった経験を重ねて、
「大変ですね」「泣き止むといいですね」「早く目的地につきますように」
そう願うトリガーだった。

今、息子は9歳。

生活の中で泣くこともあるだろうが、突然、外出先で、ウェーンと泣き出すことはない。当事者でなくなって、5年、6年と経てば、自然とそうなるのかもしれない。

子どもの泣き声は、たかだか数年前の自分の気持ちと違いがあるので、気づきやすいが、当事者ではなくなってから、不寛容になってしまってることが他にもあるんじゃないだろうか。

学生の時の気持ちで覚えていないこともあるだろう。
頻繁にあるテストの時、どういう気持ちで街中を歩いていただろう?
席替えで、嫌なやつの隣になった時、どう感じていただろう?
クラス替えの時はどうだっただろう?

社会人の一年目の時は、何に困っていたんだろう?
知識もないのに、お客様にはプロとして扱われ、会社に行きたくなかったかもしれない。

そういえば、思い出したことがある。

予備校に通っていた時、電車の中に、部活帰りの中学生がいた。ヘトヘトで今にも床にへたり込みそうになっていた。ようやく目の前の席が空き、席に座れた中学生。次の駅で乗ってきたおばちゃんが、「若いんだから立ちなさいよ」と言われ、フラフラと立ち上がっていた。中学生の彼らは、部活で自分の体を酷使して、ようやく楽になれる場所を見つけたなかりだというのに。大人になれば、段々と動作の無駄もなく、楽に立っていられたりもするのに。

「絶対に、あなたより、彼らのほうが疲れています!」

言ってやれればよかった… そんな勇気もないけれど。

でも、きっと自分にもあるんだろうなぁ。
当事者でなくなったから、わからなくなってしまって、不寛容になってしまったことが。

今さら芽生えた感情を取り除くことは難しいけれど、ちょっとだけ、不寛容になってしまった人たちに対して、大変な事情があると想像してみよう。本当は何の事情もなくて、ただの怠けものでもいいじゃないか。不機嫌になって、私が誰かを傷つけるよりずっといい。

みんな大変だ。持ちつ持たれつ。

いい歌を詠むため、歌の肥やしにいたします。 「スキ」「フォロー」「サポート」時のお礼メッセージでも一部、歌を詠んでいます。