魔女裁判としてのマイノリティ・キャンセル・カルチャー
私は『TERFと呼ばれる私達: ~トランスジェンダーと女性スペース~』という本を編集し、多くの方に関わっていただいて2023年3月に完成しました。
今、この本に対して購入することなく、通報するように呼びかけがなされています。
本日(2023年3月27日)時点でこの本は電子書籍でしか出版されていませんので購入せずに通報するということは、つまり内容を確認せずに通報するということを意味します。
その際に特徴的なのがキャンセルを呼びかける両ツイート共に、書籍の内容については一言も触れていないということです。
「この本はこのように主張しており、それがこのように問題のあるないようであるため、出版の差し止めを求める」という形はとらず、
内容を隠した上での通報を求めるのです。
このように特定の人たちから言論・思想を発表する場所や生活の手段そのものを奪うことで、自分たちの正当性を主張する運動を
「キャンセル・カルチャー」と呼びます。
個人的にはこの「キャンセル・カルチャー」という言葉はあまり好きではありません。
さまざまなマイノリティに対するヘイト・スピーチには社会からマイノリティの居場所を奪い、
彼らの言論・思想の自由を奪う効果があります。
健全な言論空間の維持のためにはマイノリティに対する偏見を植え付け委縮させるような言論が
規制されることは必要であると私は考えています。
ただし今回は「女性の権利」について語った本に対してのキャンセルを求めているという点で大きな違いがあります。
そこでこの女性というマイノリティの人権運動に対するキャンセル・カルチャーということを軸にして考えたいと考えています。
まずマイノリティ・キャンセル・カルチャーにおいては、
マイノリティが受けている差別の無効化が行われます。
トランス運動の中で女性差別の無効化がいかに行われているかは、
正に『TERFと呼ばれる私達』のテーマの一つですので、
詳しくは本を読んで欲しいのですが、ここでは一つだけ例を出します。
ここで取り上げたアカウントは、入試・採用の減点、キャリア断絶などの女性差別の指摘に対して「現実を見ましょう。」と
実社会において女性差別が存在しないかのような返答を返しています。
このようにして女性差別を存在しないものとして扱うことで、
それによって「女性差別を解消するよう求める声」を
「女性を優位に立たせるよう求める声」として扱い、
女性の人権運動を逆に差別的な運動と位置付けることができます。
このマイノリティ・キャンセル・カルチャーは、成功を約束された運動です。
何故なら結果がどうあっても必ず自己正当化の理由に使えるからです。
もしもキャンセル運動の結果として電子出版が差し止められた場合には
「やっぱり出版社から見ても客観的に差し止められるべき内容じゃないか」
という主張が行われます。
逆に出版社が電子出版を差し止めなかった場合には
「出版社までグルになって差別的な本の出版に協力するほど、
この社会では差別的な言説が浸透している」
という主張が行われます。
つまり、結果的に承認されても、拒否されても、
キャンセルを呼びかけた側は一切ダメージを負うことがなく
自己正当化ができるのです。
これは中世に行われた魔女裁判の執行の相似形をとっています。
魔女狩りによって連れてこられた女性たちは、
「裁判としての火あぶり」が行われたと聞きます。
どういうことか。仮にこの世に魔女なるものが存在したとして、
魔女に「お前は魔女か」と聞いても
「はい、私は魔女だ」と言うはずはありません。
そこで火をつけるなどの命を奪うような行為をすることで、
魔女であるならば魔法によって生き残ることができる、
つまり、死ななかったことによって魔女であることが確定するのです。
魔女であることが確定すれば死刑となります。
魔女狩りの対象になった女性は
火あぶりで殺されるか、火あぶりで生き残って魔女として殺されるかの
二択しか与えられなかったのです。
そこでは生き残るという選択肢は存在しえません。
疑われた時点で、そのこと自体が罰則を与えるべき証拠とされてしまうのです。
下記のツイートでもそのように疑いに自明性を持たせるツイートが行われています。
クラファン(クラウドファンディングの略。多くの人からお金を募って何かしらのプロジェクトを実行すること)させてもらえなかったということですが、
こちらは正確さを書く発言です。
正確にはクラファンは行われ、募金が集まって半日で目標額に達し、
成立をしました。
その後に事後的にファンディング会社に対してクレームが行われて
プロジェクトの取り消しが行われたのです。
なお、結果的に取り消しが行われた直接の原因はこの書籍内で「女性」という言葉を「生物学的女性」を指す意味で使っているということでした。
「身体的に女性である人」「シス女性」などの言葉に言い換えるのでなければプロジェクトの継続はできないと求められ、
そのように生物学的女性が女性の一部でしかないかのように見做されるのは女性差別に当たる私が主張したために交渉決裂したものです。
私としては「トランスに配慮する、女性は差別する」というのは受け入れられません。
「トランスも女性もどちらにも配慮する」という線は譲れないものでした。
なお、そのように女性の定義を変える行為の権力性についても書籍内で説明しています。
これらのマイノリティ・キャンセル・カルチャーは決して新しい物ではなく、古くから行われてきたものです。
中世から女性の、有色人種の、異教徒の発信は異端として禁書とされてきました。
ただ現代においてはそのような発禁処分を行う際に「発禁を行う側こそが反差別だ」という装いが必要であるためそれを装っているにすぎません。
しかしそれはあくまで装いであり、現実には中身を伴わないものであることをマイノリティ・キャンセル・カルチャーを実践する者は知っています。
そこで、キャンセルすべき対象の中身を語らず、かつその中身に触れさせもしない、という手段を取ります。
彼らは中身を見ればそれは納得いくものであることを知っているのです。
だから、中身に触れる機会を人々から奪おうとします。
そしてその際に用いられるのが、マイノリティの権利について調べたり考えたり議論したりすることそのものが差別であると見做す行為、つまりマイノリティ・キャンセル・カルチャーです。
あなたはマイノリティ・キャンセル・カルチャーに従って、マイノリティの人権について調べたり考えたり議論したりすることを放棄する側でしょうか?
それとも、マイノリティの人権について調べたり考えたり議論したりして、その実現の方法を模索する側でしょうか?
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