昔、女の子をデートに誘って1回目のデート後、しばらくコロナで余裕ないからと待ち続けて1ヶ月が経った頃の事。 本当は興味なくなったのかなと心配しつつ、誘った手前、相手を疑う事が悪とされる中、連絡なくただ待たされてる、相手にコントロールされてる感じのこの恋愛を自分は嫌だと気づいた。
恋人を捕まえられる自分ではまだない。いつかはそういう季節もくるかもしれないが… 確かに季節ではない。しかし、そのように考え自分と同じように塞いだ気持ちの女性は必ずいるし、そのような女性には共感したら声をかけるべきである。 季節ではない…その常識を超えられるものが愛だから。
負けても 「今回は彼が際立って祝福をされた。しかし私が祝福を失った訳じゃない。負けは更に祝福される通過点に過ぎない。なんせ前回は彼が私の立場だったのだから。見よ、あの彼の喜び様を!」 そう考えれば、今のオリンピックの様に優勝候補選手の自己卑下や鬱病になることなんてないのに🥺💦
【出資限界に注意】 輝かしい未来に希望を置き過ぎて、今出資出来る資産を超えて出資しないように。その未来に到達するまでの明日から始まる時間が地獄になるから。結局は近い未来、明日や数時間先の今日をどれだけ生き生き生きられるかの方が大切なのです。当たり前の事だけど。
「しかし」、「だから」 もしこの世に接続詞が無かったら、私は先にも後にも希望を見出せず、今日まで歩んでくることは出来なかっただろう。
絶対に欲しい!という気持ちを憐れみにより諦めさせてくださる悔い改めの境地。 あらゆる被造物への執着の罪は、自分で贖うことはできない。 しかし、同時に不可能が何一つ無い聖霊なる神が、神の主権を用いで悲しみや恐怖からの解放し、執着の罪から私の思いだけを豊かに聖別してくださる。
感謝とは、助けられた初めの思いに留まり続けることです。 時間と共に物事が変化する中でも初めの思いの世話をし続けて、それが変わらないよう努力すること。 感謝は放置すると慣れとなり、思いの主観が感謝の対象からいつの間にか自分に移る。 堕落とは、このような努力を放棄したことを言う。
神の三位一体において、御互いの交わりがお互いを喜び合うように、神が私たちを救おうとされたのも、神がご自身をそうすることで喜びで満たそうとしたからだ。 ともすれば神の似姿に向かう私たちも、自分が喜ぶために交わりを持とうとし、互いにもその交わりを喜び合うことが自然にできるはずだ。
恋愛の目的は自分の自信が決して失われないような相手と出会う事だと思う。自分が相手に尽くす事でも尽くされる事でもなく「誰が」その対象かが大事。尽くしても尽くされてても自分が惨めにならない相手、自分が高価で有益な存在だという確信とそれを保証する安心感の獲得こそが恋人を欲する源なのだ。
恋愛って、相手に満足してもらえるってわかったら安心できるし、自信が持ててまた前向きになれるよね!(^^)
フラれた男性が相手に向けて言うだけなら野暮なことになりますが、歌にすると男性全体の慰め、応援歌になります🌿✨ しかしこれを女性に聞かせて思いを押し付けるなら、それはまた受け取る側からしてみれば気持ち悪いだけになります。 これらのことは、とても複雑なように見えます。
神を恐れることを忘れている人の礼拝は、神様との交わりが神の栄光をたたえ神を喜ぶこと止まりになっていて、かえってそれが神をただの身近な存在に落としめている。 まことの神は、例えばまことの会社の愛ある上司のように、私たちかまず恐れる方かつ親しい方であるということを忘れてはならない。
婚活に参加してよく思う。自分の良い結婚相手を祈り求める人が大半な中で 「今のこの人優しさだけでつまらないんだけど、必死さは伝わって来るから、だけど彼の退屈さとつまらなさだけは絶対無理で何とか対処したいから、神様そのための知恵を送って私を助けて。」 と祈る女性を見たことがない。
神の導きの一つに「勢い」という導きもあると思う。 若い頃の性欲による交わりで結婚した二人であっても、一時の性欲の責任が二人できちんと果たせ、後の人生も夫婦となったお互いを認め合いむしろ新しく夫婦である事を楽しむことができるなら、それは私欲からの悔い改めを用いた「導き」と言えよう。
感じることに価値観が置き換わり、拠り所を失った私たちは、今日も拠り所を求めて彷徨う中で、大人たちの何かに触れているその姿勢から、何が真理で、自分に価値のあるものなのかを掘り当てようとしている。 これは、時代が変わっても昔から変わらない真理である。
自分をそしる人、フった相手などの「自分の敵」について祈るとき、詩篇69のダビデのように神に敵を呪うようにとは祈れなかった。 神の怒りの恐れしさを知っていたので、本当に祈りが聞かれた時に彼らに起こる悲劇が耐えられなかったからだ。 敵を愛し、敵のために祈る事の尊さを知った瞬間だった。