ジョー・力一とバーチャルと僕らのあまたある現実について

※こちらの記事はにじさんじフェス2022演劇部ステージ、ならびにジョー・力一2021、2022誕生日ボイスのネタバレを含みます。

 毎年同じようなことを、意見が変わらない限り同じように書いているけれど、にじさんじフェスの演劇ステージは、その変わらないジョー・力一への、そしてひいてはにじさんじという「バーチャル」への「好き」をまた補強させてくれるものだった。
 主演の有栖ちゃんの可愛さはもちろん、もう一人の主役といって差し支えない健屋花那さんの演技、神田さんの類まれなる声の良さや仰々しい二枚目半的な立ち振る舞い、その奥に仕舞われたやさしさや途中途中の残酷さがとても良かった。
話の本筋や展開は割愛させていただくが、おのおのの役どころは基本として普段の「本人たち」に「キャラクター」「役割」を付与させたものであった、ように思う。これは「全く演技していない」ことを意味しない。「舞台上のキャラクター」と「普段の彼ら」がレイヤーとして重なり合って、存在している。
 だからこそ、真っ直ぐな、ともすれば陳腐なお説教にすらなりかねない「もうひとつの現実を供として、過酷に見える“現実”を生きていこう」という励ましが響いたのだと思う。

 ことバーチャルにあまり触れない、いや、触れたことのあるひとですら口にするかもしれないひとつの論として「動いている“絵”に人間が喋っているだけで、それはバーチャルではない(のではないか)」というものがある。たぶん、一度は耳にしたことがあると思う。これは部分的な事実の指摘にしか過ぎないと、バーチャルライバーというコンテンツを愛するものとして実感している。そしてそれは、大多数の同じコンテンツを愛するファンにも通じる感覚なのではないか、と勝手に確信している。
 バーチャルライバーとして「生きて」いるひとびとのなかで「現実の」自分自身そのままで語り出す人は一人も存在していない。そこには己で名乗り出した、誰から与えられたものを問わずに、バーチャルライバーとしての「アイデンティティ」がレイヤーのようにその話者自身と限りなく溶け合うように存在している。
「仮想の自分」を生きることもまた「現実」だし、そこにいる「現実のひと」と「仮想の自分」を白黒すっぱり分けることは困難だ。話者のアイデンティティとアバターのアイデンティティが矛盾なく、年月をかけて融合したものが「バーチャルライバーのアイデンティティ」なのではないか、と思う。
 バーチャルライバーとそしてその観客たるリスナーたちは、それを無意識のうちに共有する「共犯者」として、コンテンツを成立させている。「君たちは生きている」「あなたたちは生きている」の交換をして。
 そうしてそれは「頭の中で動いているだけ」「ただ見ているだけ」の「つまんない物語」でなく、辛く厳しい(と思い込んでいる)現実へと背中を押し、疲れたときに触れられるあたたかい居場所としての「もうひとつの現実」なのだ、という高らかな宣言にもとれるような舞台のラストを見て、ぼろぼろと涙をこぼしてしまった。いや、実際には演劇チームの円陣の声が響いたその瞬間から涙が止まらなかった。「もうひとつの現実」をいきる、大好きなライバーのこえが「現実のわたしたち」に届く、そのことそのものがとても幸せで、励みになる、稀有な出来事だと私は思った。

2021年の誕生日ボイスで「たくさんのひとを振り向かせたい」と舞台から語りかけたジョー・力一は、帽子屋の役が「抜けきらないまま」ボイスの中で用意されたケーキを喜んで食べる。「ありがとう」と受け取って。
現実で「あちら」に向かって差し出したケーキが、もうひとつの現実にきっと、届いている。そう信じているし、そう信じていたい。

賑やかな不思議の国は、御伽噺でなく、れっきとした現実として息づいているのだ。

ジョー・力一さんお誕生日、活動四周年おめでとうございます。
五年目の道行をこれからも応援しています。


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