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公園の気になるじいさんたち

【1993年に新潟日報でスタートした連載を原文のまま掲載】

 もともと公園はくつろぐ場所である。大抵の人はテレンテレンとしている。たまにしゃかりきになってジョギングしている人も見受けられるが、彼らは通り過ぎてしまう。公園に溜まっているのは、たいした用もない人たちばかり。そういう人たちをぼうっと眺めているのは、いっそうくつろぐ感じがして好きだ。無防備なものに対しては、こちらも無防備でいられるからだろうか。いくら見ていても疲れることはない。

 かくして、公園でいろんな人を観察してしまうことになる。最近気になるのは、じいさんたちである。

  ”凧じいさん”は週末になると自作の凧を揚げに公園にやってくる。僕が勝手につけた呼称とは裏腹にかなりクールなじいさんだ。帽子やジーンズをとっても自然に着こなしていて、ときどきバンダナが襟元に見えたりする。

 といっても彼が気にかけているのは風のことばかり。空を見上げ黙々と凧を揚げる。一本の糸を通して凧との寡黙な対話、である。どうやらじいさんは鳥の形のカイトが好きなようだ。しかし、前のツバメ型はよく揚がったが、最近のニワトリ型(鳳凰=ほうおう=なのだろうか、鶏だったら飛ばなくて当然だが)は全然さえない。

 しかし、凧がなかなか揚がらなくても、じいさんはいらだったり、焦ったりしない。走って糸を無理やり引いたりもしない。思うように凧が揚がらぬ時は、糸を巻いて潔くひきあげる。ひき際もスマートである。

 もう一人は”ラケットじいさん”。いつも雑種の犬をお供に公園に現れる。片手には必ずふるぼけたテニスラケットをかかえている。

 少々猫背ではあるが、あの年代にしてはずいぶん背が高く、体もがっしりしている。昔はスポーツ選手だったのかも、と僕は勝手に思った。何かいわくありげなラケットだし、と。昔を懐かしみながら、毎日素振りでもしているのかとも想像したが、一度もそんな場面に出くわした事はない。いつも犬と一緒に気持ちよさそうにベンチに座っているだけだ。

 ところがある日、じいさんがあのラケットでボールを打つのを見た。犬が素早く追いかけボールをくわえて来た。あらあら、と僕は思った。あのラケットは単に犬と遊ぶための道具だったわけか。しかし、ふだんだらけきったあの犬のダッシュの速さといい、どうもあのじいさんはただものとは思えない。

 最後は”イランじいさん”だ。ひげが伸び放題でやせこけているので、年齢不詳だ。もしかしたら若いのかもしれない。鼻筋が通って日焼けしてはいるが、イラン人かどうかも分からない。時々公園のゴミ箱を物色している。先日は何かいいものを見つけたらしく、楽しそうに鼻歌を歌っていた。天気のよい日は歩き方すら楽しそうに見える。さて本当のところはどうなのか。

 何で彼らが気になるのだろうかと考えてみると、やはり自分はどんなじいさんになるのか、というところに行き着く。遠い先かもしれないし、さほど遠くない気もする。かくありたし、という信念はないが、キーワードがあるとしたら、「飄々(ひょうひょう)」であろう。故・笠智衆氏は今の僕の年齢でじいさんの役をこなした。


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