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笑い

【1989年に「ヴァンテーヌ」で連載されたフォトエッセイを原文のまま掲載】

 「抱腹絶倒」という言葉があるが、肩が凝るほど笑ったり、よだれを垂らさんばかりに笑い転げた経験がどのくらいあるだろうか。

 「音楽」と「笑い」というのは意外に近い存在である。ミュージシャンは皆冗談が好きだし、音楽の半分は笑いそのもののような気がするのだ。

 実際に演奏していても笑っぱなしのときがある。フレーズの中にはパロディがあり、ボケやツッコミがあり、それでなくても気分はハイになっているからだ。

 そうなると時々「笑い」というよりも「お笑い」に近いものを感じるときがる。(笑い、という言葉に尊敬、ていねいの意味をあらわす接頭語”お”をつけるだけで、少し意味あいが違ってくる。落語家やコメディアンあるいはギャグそのものを総称する言葉となるわけだ)

 そうなのだ。「音楽」と「お笑い」の境界線をひくのは難しい。ある意味ではバンドはすべてビジー・フォー・スペシャルになりうる可能性がある。かくいうサザンオールスターズというバンドだって、自分たちでいうのは何だが、デビュー当時、どこまで「お笑い」と区別して意識していたかわかったものではない。

 あえて誤解をおそれずに告白すると、僕自身は「お笑い」が大好きだ。特別にマニアといえるほどチェックはしていなかったが、結構ヘラヘラしながらお笑い番組を見てることが多かった。

 そして、ふと気がつくと、どうも自分は”お笑い”畑に限りなく近いところにいるような気がするのだ。「冗談画報」というTV番組にかかわったり、吉本興業関係のレコードに曲を書いたり、あるいはマンガ業界の仕事をしてみたりと、趣味をいかした仕事をしているうちに、知らぬまに「お笑い」の仕事が増えてしまった。

 まあ、いいや。幸い芸がないから表に立つことはないし、もともとギャグを考えるのは昔から好きだったからなあ、とは思っている。

 小学生の頃、自作の紙芝居をクラスのみんなの前で披露したことがあった。級友を主人公にしたスラップ・スティックだったが、これが実に大ウケだったのだ。その味をしめて、卒業式の謝恩会では、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ……」という例の詩をパロディにして朗読の台本を作った。中学に入ってからも文化祭の劇の台本を書いたり、ノートに書いたマンガをクラス中にまわしたりしていた。そのいずれもが”お笑い”だったわけだ。

 しかし「お笑い」にかかわればかかわるほど、その難しさを思わずにはいられない。

 この頃のテレビでは、「ウッチャンナンチャン」「ダウンタウン」あるいは「爆笑問題」「B-21」といった連中の活躍が目立っている。彼らは「お笑い第三世代」などとも呼ばれている。その前の世代というのは、10年近く前の漫才ブームの中心だった連中、明石家さんまとか所ジョージあたりまでを含めて指すのだろう。それ以前が第一世代、というわけだ。

 しかし、これらの世代間の違いは、単に出てきた年代だけではなく笑の作りかたの違いでもある。当然のことながら時代に合った笑い、というのもが現れるのだ。そして古いタイプの笑いはとうたされてしまう。

 ギャグマンガにおいてもしかり。ギャグマンガ家たちの人気の短命さには”あわれ”さえ感じてしまう。それほど新鮮なギャグを作り続けることは難しいのだろう。

 タイに旅行した友人がこんな話を聞かせてくれた。知り合ったタイ人が、ゲラゲラ笑いながらタイの新聞を指さしている。何かと思った友人が見ると、現地の人が書いたマンガだった。料理しようと思って羽をむしったニワトリが調理台から逃げ出す、というだけの話に、そのタイ人はまさに抱腹絶倒せんばかりに笑っているのだという。

 その話を聞いて、タイのギャグ作家になろうか、とも思ったほどだ。楽だろうな、と思う。しかし、自然に近い暮らしをしている人たちは、小さなことにもよく笑う、という話も聞く。とすれば、ギャグそのものの必要性がないのかもしれない。

 ギャグを大量に消費し、よりシニカルにそしてよりシュールに、より観念的に、そして再びより直感的に、と少しずつらせん状に位置を変えながら、ギャグを生産し続ける文明国は、やはり病的なのだろうか。それとも、そういうことが某作家のよくいう文化的成熟というやつなのだろうか。

 確かに笑いというのは一種の感動だから、それを作為的に生み出す仕事は技術に近いものがある、と思う。しかし、人を笑わせるという行為にはもっと切実なモティベーションがあるのではないだろうか。

 「深刻な人は笑うことができない。常に自分自身の心に対し看守になってしまっているからだ。深刻さとは魂の病気である」とある思想家は言っている。人を笑わせる、というのは芸術活動でもボランティアでもあるけれど、何よりも自分が笑いたいからにほかならないのじゃないかと僕は考える。自分の緊張感を破り、自分にエネルギーを取り入れ、人に近づきたい、と僕なら常に願うからだ。となると、笑ったり、笑わせたりしながら人間は助けあっているのかもしれない。

 先日、北海道に旅行したとき、久々に特急電車に乗った。その同じ車両に修学旅行の女子高生たちと乗りあわせた。制服姿の彼女たちが何を考えているのか僕にはわからない。ただ、その笑い声は何ものにも抑圧されず、高らかだった。はた迷惑だとけげんな顔をする乗客も中にはいたけれど、僕は久しぶりに気持ちよくそれを聞いた。

 そういえば昔から、僕はとびぬけて大きな声で笑う女の子が好きだったことを思い出した。たまたま好きになる女の子が皆そういうタイプだった。僕はその子の笑った顔を見るのが好きだった。うまく笑わせることが僕にはできなかったが、女の子はちょっとしたことにも楽しそうに笑ってくれた。

 無意識に求めていたものがそこにあったんだろうと思う。とても大ざっぱにものをいうとしたら、僕の希望は、心から笑って暮らしたい、というだけなのだ。


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