生きているぬいぐるみ テディベア
【1993年に新潟日報でスタートした連載を原文のまま掲載】
最近、ゲームセンターだけでなく、町のいたるところに、UFOキャッチャーを見掛ける。コインを入れロボットのアームを操作して、ぬいぐるみをつかむ、あのゲームである。
一見単純そうに見えるが、ぬいぐるみの重なり方や微妙な形によって、アームを停止させるポイントが変わってくるので、意外に難しい。実際やってみると分かるが、見た目よりゲーム性がある。しかも毎月、ゲーム人形が製作され、入れ代わるから、その度に目新しいキャラクターを狙ってムキになってしまったりする。
しかしだ。何百円もかけて苦心して取ったぬいぐるみを手にした途端、何か違う、と僕は思ってしまった。
その手触りのそっけなさと作りのチープさにがっかりしたのかもしれない。手にした途端に飽きてしまっている自分にも驚いた。しょせんキャラクター人形、だったのだ。
五月のある日、代官山というところで、テディベア・フェアというのが開催された。日本テディベア協会が主催するテディベアのイベントである。おそらく国内で手に入れられる、ほとんどのテディベアが集合していたんじゃないかと思われた。おもちゃのメーカーや代理店が輸入している外国のもの、そして、日本の工房で作られたもの、アーチスト個人が制作したもの、おまけに骨董品と同じように個人が所有する有名な熊まで展示されていた。会場の中二階では、有名なテディベア・アーチストの指導で手作り教室も開かれていた。
ひとことにテディベア(つまり熊のぬいぐるみ)と言っても、ありとあらゆる個性の熊たちがいるのには驚くばかりだ。大きさはもちろん、手触り、毛並み、鼻のとがり方、目の色とその離れ方、口元、耳の角度、それらの要素すべてが重なって、それぞれに一つずつの個性を構成しているのである。のん気そうなやつ、中には熊なのか犬なのかわからないようなやつや、ブサイクなのにどこか心ひかれてしまうやつもいる。これは深い世界だとあらためて思った。
ちなみに僕がテディベアに興味を持ったのは五年ほど前のこと。数人の友達から、自分が小さいころから持っているテディベアの性格についてや、まつわるエピソードについて聞かされたのがきっかけだった。それらの話があまりにおもしろかったんで、まとめてある雑誌に短編小説を書いたほどだ。彼らはオトナになってもテディベアと”交信”し続けている。(一人は、そのうち自分のオリジナルのテディベアを作り始めた)
彼らほどの経緯はないにしろ、思い返してみれば、小さいころ僕にもかわいがっていたぬいぐるみはあった。どうしようもなく汚れても手放さなかったのを覚えている。それがつまり僕にとってのテディベアだったのだろう。
そういった、はからずも心が通ってしまう、生きたぬいぐるみたちは確かにいる(UFOキャッチャーの中にはいないような気がするけれど)。愛情が、いろんなものをすりぬけ伝わってゆく電気のようなものだとしたら、注いだり受けとったりする液体のようなものだとしたら、彼らはあきらかにメディアであり、容器であると僕は思う。
関口コメント:
これを書いた3年後、1996年にテディベアとウクレレの店「のほほんベアーズ」を開店。週刊小説に掲載した短編小説「てでぃべあーず」はその後どこにも発表されないままである。
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