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38年前、1955年の出来事

【1993年に新潟日報でスタートした連載を原文のまま掲載】

 政界再編が始まった今年、ニュースなどではよく耳にした言葉のひとつで「55年体制の崩壊」という言葉があった。これは何を意味するかというと、1955年に自由党と民主党という2つの保守政党が合同し、政権を握って以来、初めての政権交代だということだ。実に三十八年ぶりのことである。

 三十八年前、つまり1955年とはどういう年であったか、それを今回のテーマにしたいと思う。

 おおまかにいうと、そのころ、日本は終戦後の貧しい時代を乗り越え「高度経済成長時代」に踏み出した。そのシンボルともいえるテレビの数は十一万台を突破。衆議院選挙の結果をNHKが初めて放送した、いわばテレビ時代の幕開けでもある。

 もっと身近なところでいうと一円アルミ貨が発行された。人気スターは、美空ひばり、中村錦之助といったところ(以下文中敬称略です)。大相撲では横綱が四人もいた。若ノ花(元二子山親方)はまだ関脇だった。巨人と南海(現ダイエー)が日本シリーズを争った。長嶋監督はまだ立教大学野球部にいた。もちろんサッカーは日本リーグさえまだ存在していない。高校サッカーでは浦和高校が刈谷を破って優勝。天皇杯を制したのは関学クラブ。

 冬は寒くて桜島に雪が降ったそうだ。北海道ではまだニシンがたくさんとれた。鳥島で、絶滅したと思われていたアホウドリが発見され、保護運動が始まった(今はかなり増えたらしい)。それから、オットセイの保護運動も。そのかたわら、今だったら大ひんしゅくの「捕鯨オリンピック」などというものも世界七カ国参加で開かれていた。ほかにも笑える新聞の見出しとしては「マンボスタイル窃盗団捕まる」。ヒロポン中毒者は全国で一万四千人、警察は取り締まりに躍起だった。厚生省発表の「売春白書」では公娼の数五十万人。新聞記事にはニコヨン、南極大陸、宇宙、原子力などという言葉が目立つ。ヒッチコックの「裏窓」、ディズニーの「ピーターパン」が日本で公開された。

 さて隣のアメリカに目を向けてみる。1955年はロックンロールが生まれた年と言われている。映画「暴力教室」のテーマ、ロック・アラウンド・ザ・クロックが大ヒットしたのだ。メンフィスではエルビス・プレスリーという若者の吹き込んだレコードがヒットしていた。黒人と白人の初めての合同コンサートが開かれた。ロックの誕生はサブ・カルチャーの誕生であり、ボーダレス化の始まりであった。

 この年、ジェームス・ディーンとチャーチルと坂口安吾が死んだ。もちろん生まれた人たちもたくさんいる。ケビン・コスナー、千代の富士(現九重)、江川卓、郷ひろみ、アラン・プロスト、中野浩一、明石家さんま、所ジョージ、野田秀樹、春風亭小朝、鳥山明、そして僕の同級生たちと僕自身。

 歴史を縦割りにして眺めたところで、たいした意味などない。まして過去は遠ざかるにつれてどんどんフェイドアウトする。しかし、記憶などなくても1955年は少しだけいとしい年である。つまり、つい先日のことだが、僕は三十八歳になった。

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