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SNS時代のポップ・アイロニスト、ジェレミー・スコット

注:以下の文章は、「これはDHLのTシャツではない、あるいは2010年代のファッションにおけるアイロニー - 21世紀のロゴマニア(III)」というテキストの一部として書かれました。従って、この文章の前半で行ったアイロニーに関する説明など不十分なところがあります。工事中の本文を公開していますので、アイロニーとファッションとの関わりや、私の(暫定的な)理論的立ち位置など知りたい方は参照してください。

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イタリアのジャン=ポール・ゴーティエと呼ばれたフランコ・モスキーノの言葉は痛快だ。

「アルマーニが買えるだけのお金がないからって、ルックを真似ようと一所懸命頑張ってフェイクやコピーでそれっぽくしようとする人たちがいる。私はそんなファッションは嫌いだね。なんでそんなことをするんだろう?服なんてファブリックとボタンじゃないか。夢や幸せを買っているわけじゃないんだ。そんなムキにならなくていいよ。」(WWD、1985年)
「ファッションとは本当に悪趣味(tacky)なものだ。ファッショナブルであることはポジティブなことでは全くない。ファッションはもう終わったんだ。もっと他の、意味のあることについて話そう。ファッションは人間を殺してしまう。ファッションはファシズムなんだ。デザイナーとして、私はあなたが変わるように仕向けなければならない - 髪を切ったり、メガネのフレームを変えたりね。あなたはファッションシステムによって作り出された操り人形であって、あなた自身ではないんだ。」(『ニューヨーク・マガジン』、1989年)

1994年のコレクションでモデルが着ていたシャツには「ファッションヴィクティム専用(for fashion victims only)」とプリントされていたが、その袖は拘束着のように結ばれていた。そのメッセージはつまりこうである。ファッションアディクトは新しいファッションを絶えず試すことを強いられ、自由を奪われている犠牲者である。1989年の彼の「ディナー」ジャケットには金のカトラリーが装飾として配され、そのルックには「光るものすべて金ならず(All that glitters is not gold !)」というメッセージが添えられていた。ディナージャケットという典型的な非日常的アイテムにカトラリーという日常的でチープなモチーフを配することで、モスキーノはブルジョワ的価値観の虚飾を表現してみせた。モスキーノにとって、ファッションはメッセージを伝える一つのメディアであった。彼はさらにこう語っている。「ファッションとは楽しくなければならないし、メッセージを伝えるものでなければならない。私は広告のビルボードのように服を用いるのが好きなんだ。」ビルボード(広告掲示板)は目に楽しく、時にウィットに富み、そして伝えるべきメッセージを持っている。モスキーノの服はまさにそのようなものであった。

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(写真上:「ファッションシステムを止めろ!」と書かれたモスキーノの広告と、「ファッションヴィクティム専用」と書かれたシャツ/写真下:「ディナー」ジャケット)

1994年、フランコ・モスキーノはAIDSの合併症により惜しまれつつ世を去る。そして時を経た2013年、このイタリアのメゾンのディレクターにはアメリカ人ジェレミー・スコットが就任することになる。果たしてスコットとモスキーノの相性は抜群であった。創業者の死後精彩を欠いていたメゾンは一躍人々の耳目を集めるようになる。この華々しいブランド再生の顛末について、デザイナー自ら以下のように語っている。「オファーが来るまでこの[モスキーノのディレクターという]立場について考えたこともなかったんだけど、後になって気づいたんだ。それは僕以外の誰にもできなかったか、誰も僕より上手くはできなかっただろうって。」そしてそれは自惚れなどではなかった。フランコ・モスキーノのように、スコットは大量消費社会のヴィジュアルランゲージを用い、ポップでアイキャッチングなルックを作り出す才能に非常に長けていた。新生モスキーノは、大衆はもとよりケイティ・ペリーをはじめとするセレブリティにも愛され、特大のiPhoneケースなどのスマッシュヒットを次々と繰り出した。

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(モスキーノのドレスを着たケイティ・ペリー。ドレスにはマクドナルドのロゴをモチーフにしたロゴが配され、カバンもマクドナルドモチーフかつそれ自体がシャネルのマトラッセのパロディである。)

しかし、スコットの過剰なほどぴかぴか光るビルボードにはそこにあるはずのものがなかった。メッセージである。フランコ・モスキーノが旧態依然のファッション業界の象徴としてけばけばしくパロディしたシャネルのアンサンブルは、スコットの手によって赤と黄のマクドナルドカラーに変えられ、それはシャネルのエレガンスも故モスキーノのウィットも欠いていたが、なぜか下品なほど欲望を掻き立てるウルトラポップなピースと化していた。

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(上:フランコ・モスキーノによる1991年のアンサンブル/下:ジェレミースコットの新生モスキーノによる2014年のアンサンブル)

このようなデザインをを見た批評家たちは、モスキーノというメゾンから大切なものが失われたのではないかと感じた。『レクスプレス』誌は以下のように書く。

「このユーモアは完全に無垢なものではない。というのも、スポンジボブのセーターの裏側には恐ろしい機械が隠れて金勘定をしているからだ。ジェレミーのディレクションによって、モスキーノは1シーズンもしないうちに、創立者のモードのシステムを馬鹿にしつつそれを利用する挑発的な振る舞いから遠く離れ、知的なブランドから、今時の若者たちにとって魅力的以上のもの(ultradésirable)を作り出す旗振り役に変化したのだから。」(『レクスプレス』、2015年)

実際、彼のデザインは消費社会批判というよりその賛美といった印象が強い。彼のデザインにはマクドナルドやスポンジボブ、ハーシーズのチョコレートといったいわゆる「キッチュ」なモチーフが踊るが、そうしたモチーフの使用から創業者のような批判精神を感じ取ることは難しい。スコット自身、ラフ・シモンズがスターリング・ルビーのデザインを扱うように自分はマクドナルドのデザインを使っているだけなのだと語っている。

「あのドキュメンタリー、『ディオールと私』を見てる時、僕はこう思ったんだ。ふむ、確かに世界的に知られたイメージってわけじゃないけど、彼もあるものを剽窃(アプロプリエート)してそれを使ってる、ってね。もっともっと多くの人にとってより身近なイメージを僕が使っているからといって、それは僕のプロセスが深さを欠いているっていうことにはならない。僕のしていることも、ラフ・シモンズと同じくらい大きなパッションを表現するものなんだ。問題はただ、人々がユーモアを欠いているってこと。」(『ニュメロ』、2015年)

即座に成功を収めたスコットの手腕は確かに驚くべきものだ。だが、彼のやり方には金のために手当たり次第モチーフを剽窃しているようなところがある。しかし、ラフ・シモンズがスターリング・ルビーの作品を利用しているのとそれは何かが違うのだろうか。見かけの浅さの裏側に、見えない深みが隠れているのだろうか。

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(スターリング・ルビーのアートワークを用いた、ラフ・シモンズのルック)

我々の考えでは、ジェレミー・スコットのデザインには「深さ」や「メッセージ」で括られるものは存在しない。しかし、それがこのデザイナーを一層面白くしているものである。彼デザインのエートスを理解するために重要だと思われる一つのアネクドートがある。スコットはカンザスの田舎出身であり、いわゆるモードの世界とは隔絶された環境で育った。あるいはモードの世界は彼にとって、一つのチャネルを通してしか入ってこないものであった。それはメディアである。彼は少年時代、テレビや雑誌に写される過剰に誇張されたイメージが実際に現実を写したものであり、自分の小村以外の世界中どこでも人々はテレビや雑誌のように着飾っているものと思っていたという。カンザスの少年にとっては作られたイメージこそがリアルよりもリアルだったのであり、彼はそこから覆いを剥ぎ取った「真実」へ、深みへと遡行する必要を感じることなく、ただイメージに同化したいという欲望を感じていた。彼にとってはイメージがオーセンティック(真正)であることよりも、それがメディアの中で放つ力の方が本質的であったわけだ。

こうしたスコットの姿勢は、彼がインスタグラムなどのソーシャルメディアとの親和性を深く感じているという事実に符合するように思われる。彼はこう語っている。

「僕は自分がソーシャルメディアのために生まれてきたんじゃないかと思うんだが、それは僕がセルフィーが好きだっていうことじゃない。今の時代のソーシャルメディアといえばインスタグラムのことであって、つまりは手のひらサイズの画面なんだ。インパクトがあるのは黒づくめのルックじゃない。大事なのはカラフルで大胆であるっていうことなんだよ。そして僕のデザインはずっとそうだった。時代が僕に追いついてきたみたいに感じるよ。」(『ヴォーグ』、2018年)

SNS上ではルック、あるいはアイテムのイメージが無限に複製され、無数の手のひらサイズの画面に拡散され、ユーザーの目の前にやってくる。ロシアのイコンはキリストの原像(Urbild)を写した像(Bild)でありながら、それぞれのイコンは礼拝の対象としての力を保っている。SNSにおけるイメージは、それとは対蹠的なあり方をしていると言える。無限に複製され拡散されていく中でそれぞれのイメージはかけがえのないものであることや真正であることを諦め、歴史や距離といった深みからの作用ではなく、その表面から身体に及ぼされる作用こそが本質であるように機能するようになった。

マクドナルドとスターリング・ルビーで決定的に異なる点が一つある。それは、マクドナルドのモチーフが無限に複製可能なイメージであり、それに加えてそのイメージはオリジナルというものを持たないのに対し、スターリング・ルビーの作品はアーティストに紐づけられており、そしてそれぞれがかけがえのないものであるという点である。ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、このオーセンティシティ(真性さ)に結びついたひとつきり、一回きりのかけがえのなさとそれに基づく距離の感覚を「アウラ」という言葉で呼び表した(Aura、いわゆるオーラに相当する)。そして彼の「複製技術時代の芸術作品」と題されたテキストの中では、写真をはじめとする複製技術の登場によりこうしたアウラに基づいた価値(礼拝価値)の格下げが起こり、そこからイメージとしての純粋な強度(展示価値)へと重心の移動が起こると論じた。このテキストは今から80年ほど前に書かれたものだが、コミュニケーションにおけるヴァーチュアルの比重が増していく中で、ベンヤミンの言葉はますますアクチュアリティを持って我々に迫る。

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(ヴァルター・ベンヤミンのポートレイト)

ベンヤミンが最も複製技術と密接に関わりを持つものとして挙げてられているのは映画である。映画においては、写される物事そのものがかけがえのない、崇高で、価値のあるものである必要は全くない。では何が映画を価値のあるものにするのか。それはモンタージュ、マテリアルを変形させ、編集し、配置するその方法である。ベンヤミンは「芸術が栄えうる唯一の領域と長いあいだみなされていた<美しい仮象>の国から、芸術はすでに抜け出してしまっている」と書いた。美しい事物、あるいは崇高な精神を再現することは、芸術の唯一最大の目的ではもはやない。アウラの凋落の結果、事物を礼拝対象として扱うのではなく、いわばマテリアルとしてその感覚的効果を重視し、そうした得られた素材を自由に組み合わせて自己を表現することが可能になった。このような広大な可能性の空間、遊戯空間(Spielraum)のなかで、メディアのために素材を再現することではなく、メディアにおいて素材の組み合わせによって自己を表現することが可能になったのだ。

シモンズとルビーのコラボレーションピースは、多くの場合ルビーの作品のアートとしての価値をもっとも引き立たせるキャンバスのように作られる(ジャケットやコートなどのアイテムはその最も「ノーマルな」形が選ばれ、アートワークの背景としてのアイテムが用いられるとき、それらはほとんどの場合単色である)。そしてシモンズが最もクリエイティブであるとき、ルビーのアートワークの力は最も弱まるように思われる。それに対し、ジェレミー・スコットの服はマクドナルドのキャンバスでは全くない(そもそも彼はベジタリアンであるという)。デザイナーはモチーフを変形させ、編集し、配置する。編集者のハサミの下で、アウラを持たない事物たちは皆等しく整列する。現代の解剖台の上ではミシンとシャネルのツイードジャケットとマクドナルドカラーが出会うのだ。その後それらのマテリアルはスコットのヴィジョンに従って組み合わされるのだが、そのヴィジョンが唯一崇めるのは享楽である。スコットはアウラに結びついた趣味の良さという神が牛耳るモードの神殿を極彩色のポップの爆弾で吹き飛ばし、そこにヘードネーを奉じる新たな社を組み立てあげてみせた。

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(上:ラフ・シモンズ2014年秋冬コレクション/中・下:モスキーノ2014年秋冬コレクション)

シモンズのようにモチーフがオーセンティシティを持つわけではないということは、必ずしもスコットのデザインが劣っていることを意味しない。ここでは価値の二方向の運動が起こっている。スポンジボブを用いたアイテムを例にとろう。スポンジボブはオーセンティックなオリジナルが存在しない反復であるという点でそもそもほとんど礼拝価値を持たないと言っていいが、モチーフはそこからさらに解体され、変形される。このことはモチーフのモチーフとしての価値のさらなる格下げであるのだが、しかし同時にそうした要素の解体および変形は、全体のコンポジションがより緊密で効果的に組織されることを可能にする。スポンジボブのモチーフが用いられたピースにおいて、黒いドットはスポンジの孔だけではなく少なくとも水玉模様あるいはヒョウ柄という二つの伝統的なパターンを思わせるものであり、モチーフとアイテムは図と地あるいはキャンバスとモチーフという緊張関係で結びつけられているのではなく、有機的で不可分な全体を構成する。スポンジボブはある文化的意味内容に結びついた記号であることをやめていないが、あくまで全体を構成する一つの要素としてデザインに統合されているわけだ。そうしたモチーフの変形および全体の再構成についてスコットはこう語る。「僕が興味があるのは、ブルジョワのコードを使って、それらを工事現場で見るような蛍光色やぴかぴかの素材に結びつけることなんだ。重要なのは、リファレンスを不自然さを感じる方向に持っていくということだ。そうすることでこそ、新しいものを作ることができる。あなたが先ほど挙げたもの(マクドナルド、ルーニー・テューンズなど、スコットが使用してきたモチーフ)は単なる図像の集まり(iconographie)にすぎない。それぞれの時代を強力なイメージで彩った、マリリン・モンローやマドンナと同じようなね。」各モチーフはある視覚効果のために選ばれており、それらはそれら自体のオーセンティシティのために選ばれているのではない。そして、こうしたモチーフの解体と再構築は、「ブルジョワジーのコード」が、無限の反復可能性、組み換え可能性を持ったものとして高度に記号化されていることでより効果を発揮する(スポンジボブがスポンジボブであるために必要な要素は黄色と特徴的な顔面だけであり、赤と黄色の組み合わせだけで我々はマクドナルドを連想する)。SNS時代の申し子たるジェレミー・スコットがデザインにこうしたモチーフを選ぶのは十分な理由がある。

ここで、さらにこう問うてみることが可能だろう。我々にこのような分析をせしめたのは、モスキーノというメゾンがハイファッションという領域に位置しているからではないか、と。モスキーノは同時にハイであり(オーセンティックなコレクションブランド)、ローである(ポップ[=ポピュラリティであり、大衆に結びつく]なモチーフ)。その結果、スコットのモスキーノは3つの受容のあり方を生み出すように思われる。あるものはそこに、ポピュラリティとオーセンティシティのハイブリッドを見出す(①)。そして別のものはそこに不協和を見出す(②)。なぜなら、オーセンティシティは技術とオリジナリティ、伝統に結びつくが、スコットのモスキーノはそのうちの伝統しか満たしていないように思われるからである。すなわち、彼のデザインはメゾンのオーセンティシティを不当に利用している。しかし彼のピースは、ある意味ラフ・シモンズとスターリング・ルビーのピースよりも「デザインされて」いる。こうして最後のグループが辿り着くのは、モードというシステムに対する疑問の状態である(③)。インターネットにおけるイメージの流通、SNSでのootdのやり取りがむしろ主となり、物理的な現前性に基づく遠さの感覚、すなわちアウラが過去例のないほど凋落したように思われる現代において、従来のモードが打ち立ててきた価値は未だに有効なのだろうか?モードを支えてきたオーセンティシティに基づく趣味の良さという価値すらもそのイメージに基づく偽物、シミュラクルに置き換わっていく中で、真に価値のあるものは各要素およびそれらの配列によって与えられる享楽だけではないか?

ジェレミー・スコットのアイロニーはここにある。フランコ・モスキーノのデザインはアイロニックであったが、それはいわゆる論争のためのアイロニーであり、デザインはメッセージに従属していた。従って、デザインが伝わることによって服の役目は言わば果たされてしまうわけだ。翻って、スコットのデザインはそれ自体何かへの批判ではない。アンディ・ウォーホルは彼の作品の「裏側には何もない」と語っていたが、ジェレミー・スコットも同じく、自ら語っているように自分が適切だと信じるデザインをしているだけなのだろう。しかしだからこそ彼のデザインには強度とともに批判性が宿る。というのも、従来のモードを支えていたかけがえのなさ、すなわちアウラが凋落したとするなら、ポップカルチャーを通じてより多くの大衆に働きかけることのできるスコットのプラグマティックな方法こそがむしろ本質を射ているのであり、死んだ価値をゾンビのように騙し騙し延命させながら生きながらえるモードのシステムの方が不健全だと言えるからである。こうしてシステムそれ自体の妥当性が間接的に問い直されるのであり、そうした意味において、スコットのデザインはそれ自体としてアイロニーではないが、その需要のされ方がアイロニーたりえるという構造を持っている(キェルケゴールのアイロニー)。

こうしたアイロニックな構造は、アイテムの商品としてのあり方にも変化をもたらす。というのもそれは、カスタマーとの関係において、複層的な強度を持つように思われるからである。第一にアイテムは、①の意見を持つ人々からすれば、ポップさとオーセンティックさを併せ持つ優秀な商品である。そして第二に、スコットのデザインはモチーフを単に全体の配置の中の一素材として扱っているのであるから、②のポップカルチャーの「低俗な」デザインによってメゾンの権威を格下げしているという批判は有効性を失う(スポンジボブのデザインは認知可能な限界まで解体されており、安いデザインを盗用した安易なアイテムであるという批判は当たらない)。そして第三に、ポップカルチャーとハイブランドの組み合わせによりアイテムが纏うアイロニー的印象は、商品に前衛的なステータスを付与することになるだろう。一言で言うなら、アイテムは大衆迎合的かつアンチモード的であるということになるわけだ。これによって③の意見を持つ人々を商品の誘引力の圏内に取り込めるかどうかは不確かだが、少なくとも③の意見は②の意見に対するカウンターとして機能する。というよりおそらく、スコットによるモスキーノを見るとき、人は(その濃淡は違えど)①~③の要素を同時に感じ取るのだろう。そうした複層性によって、ある人々は不思議な曖昧さを感じながらもそれに惹きつけられ、またある人は惹かれながらも突き放し、そしてVogueのEugene Rabkinのような人々はそこに複層性、アイロニーの存在を感じ取る、といったことが起こるのだ。

無論、ほとんどのスコットのカスタマーはこのような構造を十全に意識して消費を行なっているわけではない。しかし彼らはスコットの途方もない自由にシンパシーを感じてもいる。ベンヤミンはこう語っている。「芸術作品の前で沈潜するひとは、そのなかに自己を沈潜させる。・・・これに対して散漫な大衆は、逆に自己の内部に芸術作品を沈潜させる。」このドイツの思想家は、機械複製技術が本格的に大衆化したことの中に、アウラを失ったマテリアルの自由な組み合わせが形成する遊戯空間(Spielraum)の発生を見た。そこから80年が経ち、インターネット及びSNSが普及した結果、その空間が既に少なくない大衆の中に大規模に内面化されていることを、ジェレミー・スコットの成功は教えているだろう。しかしその成功は同時に、ブランドのステータスおよびそれに基づくオーセンティシティ、すなわちそのアウラが無ければ機能しないようなアイテムの複層性に基づいたものでもあった。言い換えれば、ジェレミー・スコットのデザインは、モードというシステムの機能不全に対する批判性を含みつつ、そこに依存したものであるのだ。こうしてシステム自体が当のシステムに対するアイロニーを可能にしたとするなら、それもまた一つのアイロニーであると言わねばならないだろう。

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