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運が良い人はどんな人?

日付の変わらぬうちにと気忙しくかけた電話の受話器越しに聞こえる声は、まるで濃厚なクリームで磨いたヴァイオリンの木肌のように艶やかで光る声をしていた。目を瞑り、記憶を消してしまえば、その声は40代前後、働き盛りの男性の声のようにも聞こえる。声の主はその日91歳の誕生日を迎えた私の伯父である。身近な人物の中で「運が良い人」を思う時、私は真っ先にこの伯父のことが思い浮かぶ。

節目を迎える誕生年に伯父は必ず自分で宴を催してきた。会が開かれる行きつけのホテルの一室に駆けつけるのは、私を含む数少ない親族と、伯父と古くから交遊のある友人たちである。東京にある老舗の小さな家業を継ぎ、今もなお毎日の出社を日課とする伯父は、地味でお堅い家業の印象とは裏腹に、不思議なくらい交遊関係が華やかだった。

一体どこで知り合ったのかわからないけれど、誕生の宴の常連は70年代に国民的アイドルとして活躍した女優にその夫の有名俳優、テレビの創成期から活躍して愛された洒脱なおじさまタレント、著名な元プロ野球選手、大臣も務めた有名な政治家、国家機関の某長官たちなど、テレビを全く見ない私でも、ほとんどの人が名前と顔の一致する著名人ばかりがやってきた。

10年周期で開かれてきたこの不思議な誕生会のために、多忙な中でも万事繰り合わせてやってくるメンバーは、職種は違えど一流の方々ばかりで、そこに居合わせた私はまるで夕方のニュース番組に偶然映り込んだ場違いな子供のようだった。素人剥き出しの野暮な姿で、華やかな宴席の端にある親族テーブルに静かに腰をかける。緊張して舞台に立つ時、「観客をジャガイモやニンジンだと思えばいい」と昔、先生から教わったことがあった。私は観客席に座るジャガイモのように、彼らの様子をいつも遠巻きに眺めていた。

とにかく仕事が忙しかった30歳前後に、華麗な人脈を持つ伯父の不思議を知りたくて、理由を何度か尋ねてみたことがある。ショートケーキ作りで余った生クリームの残りを指ですくってこっそり味わう子供のように、私もまた秘密の味を隠れて堪能したかったのだ。

「どうしてだろうねぇ。僕はただ運が良かったんですよ」

と伯父は言う。期待した返事はそれではない。もっと実のある、生々しい話が聞きたかった。しかし何度伯父に尋ねてみても、私が望む答えは返ってこない。伯父も多少はとぼけてはいるものの、「何故だか自分でもわからない」と思うのもまた本心のようだった。

頼りにならない伯父の返事への執着を捨て、他に自分にとっての憧れの人生の先輩はいないかと考えてみた。思い当たったのは映画の字幕翻訳家の戸田奈津子さんだ。個人的な面識の全くない戸田さんだが、どうやら互いの行動エリアだけは近いようで、これまで街で何度もお見かけしてきた。いつも戸田さんでしか放てないオーラが彼女の周りに渦巻いていて、迫力と輝きに心痺れた。字幕翻訳者だから、有名人だから、ハリウッドセレブと交遊がある人だからという条件付きの素敵さではない。いつすれ違っても、まるで知性と輝きが歩いているようだった。

米国・コロンビア大学の名誉教授・メトロポリタン美術館の元特別顧問であり、日本美術を世界に広めた第一人者である村瀬実恵子先生と、戸田奈津子さんとの対談集『枯れてこそ美しく』(集英社刊)を読んだ。対談当時、村瀬先生は97歳、戸田さんは85歳。今でこそ日本人も英語が流暢に話せて当たり前の世の中だが、お二人が世に出た50、60年年以上前はごく限られた人のみが英語を操れる時代だった。村瀬先生は戦後にフルブライト奨学生として留学した先のコロンビア大学で美術史考古学を学び、日本美術の専門家として同大の教授に就任。戸田奈津子さんは周知の通り、50年以上に渡り海外映画の字幕翻訳を手がけてきた第一人者である。

『枯れてこそ美しく』(集英社刊)。97歳(当時)にしてハイヒールを履き、洋服は「AKRIS」一択というファッショナブルな村瀬先生。アメリカに長年暮らす先生ならではの快活な人生観も面白い。戸田さんが語る知られざるキャリア人生も読み応えがある。

本の中では「キャリアについて」「運命の出会いについて」「仕事の意味について」「人との付き合いについて」など、大変興味深いテーマが対談形式で綴られていた。時を忘れて読み耽り、一気に読了する。詳細は本を読んでいただくとして、私が本で何より印象深かったのは、本の中でお二人ともが一様に「自分は運が良かった」と口を揃えて語っていたことである。

村瀬先生は自分が大学にいた当時のアメリカには日本美術の研究者が皆無で、自身だけに研究の白羽の矢が当たった境遇に運の良さを感じていた。その後教鞭をとったクラスの生徒で、後に日本美術の世界的な個人コレクターとなるメアリー・パーク氏と出会ったことも「幸運そのものだった」と振り返る。彼女のコレクション収集に携わる中で、研究者としてのみならず、キュレーターとしても研鑽を積めたことは、その後の先生のキャリアを大きく飛躍させたそうだ。

一方の戸田さんもまた、映画界の巨匠フランシス・コッポラとの運命的な出会いを振り返る。コッポラの推薦により映画『地獄の黙示録』の字幕を手がけたことから、戸田さんの快進撃が始まった。少女時代から身が焦がれるほど憧れてきた字幕翻訳者となる夢を、40歳にして叶えたのだった。加えて当時は日本を訪れる海外の映画人たちが2〜3週間は日本に滞在したため、彼らと行動を共にしながら個人的な深い関係を築くことができた。時代という運もまた、戸田さんのキャリア形成に味方してくれたのだと本に綴られていた。

村瀬先生や戸田さんのような、"運の良さ"はどうすれば身につけられるのだろう。それを知る方法が、東洋占星術の技法の中にある。東洋占星術が最も得意とする、運勢の分析である。

「宿命に合った生き方をすることが最良の開運法である」と考える東洋占星術は、自然が与えた「生まれ日」の中に、その人が果たすべき生き様が宿命として描かれていると考えている。生まれ日は自然が人間に与えた、いわば「顔つき」のようなものだ。人間は自然の一部である。数多の生命が生まれては死んでいく中で、自然が一定の調和を保ち続けるためには、生まれ出る命それぞれが異なる役割を果たしていく必要があると、東洋占星術では考えられている。

たとえば向日葵の花を
真冬に咲かせようとはしないように、
桜を秋にどうしても見たいとは
願わないように、
ふさわしいタイミングで花を咲かせる人間の生き様を、自然の風景にたとえて宿命が教えてくれている。まるで幸運の方角をいつも知らせてくれる、人生の羅針盤のように。

逆説的なようだが、たとえ宿命を知らずとも、宿命に合った生き方をしている人には、「幸運なタイミング=運を不思議と掴むものである」と東洋占星術の世界では多く語られることがある。村瀬先生の宿命はわからなかったけれど、戸田さんの宿命を読めば、戸田さんがフランシス・コッポラの推薦で字幕翻訳の仕事を得た40歳のタイミングは、10年ごとに回る後天運によって、それまで持って生まれた宿命だけでは成立しなかった異次元の運が、ちょうど巡り始めたタイミングでもあった。

この運は大変に大きな発展性が望める運で、そのスケールは国内だけには収まらず、むしろ国を股にかけた活躍を志すぐらいがちょうど良いと言われているほどの威力がある。加えて運の中にも質があり、その時に戸田さんに巡ってきた異次元の運とは、とりわけ「伝達・表現」に大きく傾く運勢でもあった。

戸田さんがこのタイミングで字幕翻訳者として日本と海外を繋ぎ、快進撃を始めたプロフィールも、宿命に描かれたタイミングと驚くほどに符号する。最良の時期を事前に知っていたわけではないだろうが、戸田さんが常日頃から宿命に合った生き方をしていたからこそ、ベストなタイミングで幸運を掴んだのだと考えられる。

冒頭に登場した伯父の運の良さの秘密も知りたくて、東洋占星術で描かれている宿命はどうなのかもそっと覗いてみた。宿命の中には誰もが「守護神」と呼ばれる、その人にとって幸運を呼ぶエレメントや人物が描かれている。ただし守護神の中にもエネルギーの強弱や質があって、伯父の場合はやはりというか、幸運な守護神に恵まれた宿命の持ち主であった。

伯父はまた、兄弟全員が比較的早い段階でこの世を去るという悲しい経歴の持ち主でもある。早逝した家族は残された人に運を授けてくれるものだと、東洋占星術では考えられている。そして彼らがどんな気を家族に残していったのかもまた、占技を通して鑑ることができる。東洋占星術は、私たちの文化に古来から根付く独特の死生観をもつ学問でもある。

伯父が91歳になりたての誕生日の晩、私は人生で初めてこんな言葉をかけた。

「伯父ちゃま、もしこれまで運が良く、
今も健康に生きられているのだとしたら、
それは単に自分の努力だけではなく
長く生きるべき命を
全うすることが叶わなかった
兄弟や姉妹全員が、
伯父ちゃまの人生を
全力で応援してくれているからですよ」

と。

伯父はヴァイオリンの音色のような艶やかな声で、「そうだね」と嬉しそうに呟いた。







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