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対話型鑑賞@大原美術館

人生二度目の倉敷。一度目は中学の修学旅行でした。自由時間のグループ行動のリストには大原美術館もあったと記憶していますが、お小遣いの金額制限がある中、美術館は気になりつつも、その選択は言い出せませんでした。実家の近くには美術館などはなく、私は「美術館」という響きに憧れがありました。そのせいか、名前だけはずっと残っていました。
コロナ禍前、海外からの旅行者さんたちの訪問先として、アートが目的の方も増え、大原美術館や直島などの話題を見聞きするようになりました。私の中の大原美術館への心残りがどんどん大きくなっていました。そんな中、

Voicyパーソナリティー田中慶子さん

のオフ会で倉敷&大原美術館という企画が持ち上がり。心が揺れました。田中慶子さんと大原美術館のご縁により、早朝対話型鑑賞の機会をいただけるとのこと。そんな機会は滅多にないことです。ただ、基礎疾患ありのため、コロナ禍での移動に不安があり、ぎりぎりまで決断ができませんでした。他にもよい偶然が重なり参加させていただくことになりました。

対話型鑑賞は、初めての体験でした。オフ会メンバーさんのお子さんも一緒に参加されていました。20人くらい参加していて、初めはみんなで作品について特別解説員さんにご説明いただきつつ館内を回りました。次に2つのグループに分かれ1枚の絵の前でひとりひとりが感じたこと、見えたもの、何に見えたか、注目した部分などを話す対話型鑑賞に移りました。お子さんたちは絵の前に座り、文字通り視線の違いにより見えている世界が違って、大人が気づかない、気にしていない部分を指摘して、大変興味深い時間となりました。
ひとグループ2種類の絵で対話型鑑賞が行われました。ひとつは一人の女性と風景の印象派のような絵、もうひとつは抽象的な絵ででした。印象派のような絵では、光に注目をする人もいれば、影に注目する人もいて、女性の服装に注目する人、表情や視線に注目する人と隅々まで見ていることがわかりました。お子さんたちは、座って目の前にあたる足元に注目したりと、本当に様々で、一人で絵をみる時より、何倍も絵の広がりを感じました。
抽象的な絵はピカソの作品で、人により同じものを見ていても、違うものと思っていたのが不思議でした。赤い実をりんごという人がいたかと思うと、私には柿に見えたり。人影のような形を、男性と思う人がいたり、女性と思う人がいたり、悲しい表情に見える人がいたり、よろこんでいると感じる人がいたり。私には顔の半面が男性で、半面が女性に見えました。鳥のような形を1羽と見える人がいたり、2羽と見える人がいたりと、本当にいろいろでひとりでは気づけなかった絵の鑑賞方法でした。

何よりもよかったのは、どのような感想、見え方であっても、否定されないということです。特別解説員さんはもちろんのこと、一緒に参加したリスナー仲間のみなさんも「あ〜本当だ。そうも見えるね。」とあたたかい雰囲気での鑑賞となりました。

それから、絵の鑑賞方法として、最初に年代や、タイトル、作者を見ないということも興味深く感じました。今までは、最初に作者やタイトルを見てから、タイトルを思い浮かべながら鑑賞していたからです。そんな方法もあったのかとハッとさせられました。ずっと自由に鑑賞できることが実感できました。絵を最初に観て、自分で感じて、それからタイトルを見て、また絵を観る。1枚の絵で二度おいしいというようなお得感まであり、楽しみ方が広がりました。

子供達も早い時期にこのように否定されない環境で、ただただ感じる鑑賞ができると楽しさが伝わるのではないかなと思いました。児童、生徒になると、美術鑑賞や、音楽鑑賞には感想文がつきものです。それが嫌だという話も聞きます。大人でも感想文つきとなると楽しさが半減しますよね。

私も決して美術(アート)がわかっているわけではなく、昔のものも、現代アートも「好き」か「嫌い」かだと思っています。それでも美術館は今でも憧れの響きがあり、その空間が好きです。今回の体験により、中学生の頃の心残りが解消され、美術館が少し身近に感じるようになりました。なかなかの出不精ではあるのですが、東京の美術館にも足を運ぼうと思います。

昔から好きなクロード・モネの絵葉書を買って帰りました。

大原美術館前

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