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赤い靴

何かを書きたい時は気持ちの整理をしたい時。
けど、エピソードが多過ぎて、しかも何が自分に影響したか分からないから、考えているうちに蓋して日常に戻る。
それなら気持ちの整理要らなくない?って思ったりしてね。一周回って、、、的な。笑

記憶

私は一人っ子だから、家族といえば父親と母親になるわけだけど、産みの親とは、いわゆる〝一家団欒〟を感じたことがない。これは小さい頃から何回もトライしたけど、3人で過ごした事を思い出そうとしても全く出てこない。実際には4、5歳までは3人の生活があったはずだから、〝私の記憶には映像がどこにも無い〟が正しいかな。

逆に、鮮明に覚えているシーンがいくつかある。母親とその恋人、父親と歴代のカノジョ達との光景。それらも数少ないけど、数分間のその映像は、周りの色やその時の空気、会話や声まで忘れることが出来ない。

母親と恋人

母親が30年以上交際し一緒に生活した人。くも膜下出血で倒れた時に救急に付き添い、最期を看取ったのもその人だから、母親にとっては〝同居人〟ではなく〝恋人〟だったんだろうな。
まぁ娘からしたら、子どもを置いて出て行ったんだから、そのくらいは貫いてよねっていう思いだったけど。

その人と最初に会ったのは両親が離婚する前。
父親とはタイプが違う雰囲気の、目が細くて色が黒い人だった。
一度、学校を休み、ランドセルを持ったまま母親とその人の家に泊まりに行かされたこともある。さすがにその時は全力で反抗して、「家に帰りたい!!」と母親に泣いて怒った。
その人と過ごした時間が真っ暗な夜の記憶しかないのは、私の中の何かが全ての色を塗りつぶしたのかも。
とにかく、母親がすごくズルくて厭らしくて汚らしい人間に感じた。生まれたばかりの赤ちゃんが一番近くで微笑む人を〝母親だ〟と認識するように、間違いなく私が母親を〝私はこの人が大嫌いだ〟と刻みつけた瞬間だと思う。

 私が泣き続けたし、翌日は学校だったから、確かタクシーで蒲田のマンションに帰った。案の定、私と母親は並んで正座させられ父親の罵声を浴びることになり、私も頭ごなしに「なんでお前も帰りたいと言わなかったんだ!!」と父親から責められた。
 いや、私言ったよ?だから今日帰ってきたんだよ?…本当は大声で叫びたかったけど、そんな事を言ったって何の解決にもならないことを悟って、ただひたすらに耐えた。その時、母親が私を庇ったかは覚えていない。
ただ、私が寝た後に父親は母親を殴っただろうな、と随分あとになってから考えたりした。

へのへのもへじ

こんな苦痛以上に忘れられない場面がある。
その人と母親と3人で遊園地だかデパートの屋上遊園だかに行った時のこと。
ふと足元に視線を落とすと、2人の靴が赤色だった。その人は赤いスニーカーで、母親が赤いパンプスだったか、とにかくその光景がすごく嫌で、でも感情を押し殺して「なんでお揃いの色を履いてるの?」と聞いた。
2人は照れたみたいな顔で、「あら、偶然よ〜」「亜里奈、よく気づいたな?」と、私が苛立ちながらもすごく傷ついている事には全く気づかず嬉しそうに言葉を弾ませた。
 アンタの娘じゃない!名前を呼び捨てにするな!!と嫌悪で吐き気がした。その日の日差しやパラソルのついたテーブルの色まで覚えてるけど、私はその人の存在や顔を消したくなって、一瞬で顔に〝へのへのもへじ〟を上書きした。
 それから約30年後に再会するまで、その人は私の中で、〝色が黒くて頭に手ぬぐいを巻いている、畑の真ん中に立っているカカシ〟になった。それが、自分から母親を奪った男に対して、6歳の私が唯一出来る仕返しだったのかもしれない。

プレゼント

それから少しして、母親が私に赤いサンダルを買ってくれた。母親からすればあの日の償いかもしれないし、もしかしたらいつか叶うかもしれない〝3人〟を期待していたのかも。
でも私がその人に会うことを拒んだから、赤い靴3足が揃って歩くことは一度もなかった。
 ただ、母親と会わなくなった後もサイズアウトするまで沢山履いた。母親のことはあんなに嫌いだったくせに履き続けたのは、やはりどこかで愛されたかったんだろうな、と思う。

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