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大恋愛しても

父親はトランペットを吹くJAZZミュージシャンだった。バンドを組んでオリジナルの曲をやりながら、地方を周って歌手のバックバンドをやっていた。そして、プロのJAZZ歌手としてコロンビアレコードからデビューしていた母親とは、岐阜のJAZZ Barで知り合ったらしい。

Louis ArmstrongやMiles Davisに憧れてドルが360円時代に渡米しJazzにハマった父親は、祖母の大反対を押し切り大学を中退して音楽の世界に。
アメリカのセクシーシンボルと言われたMarilyn Monroeが大好きで、いわゆる〝アメリカかぶれ〟だったから、スペイン系ハーフの母親に一目惚れしたんだろう。
母親も、バンドリーダーで男気が強くフェミニストだった父親がその時は輝いて見えたはず。2人は一瞬で恋に落ちた。
 岐阜の仕事は長期だったから2人が過ごす時間が長くなり、間も無くして私を妊娠したらしい。
仕事を投げ出すわけにはいかず、祖父母が家電や箪笥など揃え、全く知らない地で新婚生活をスタート。父親26歳、母親24歳。早いな、と思うけど、昭和の結婚はこれが普通だったのか。

崩れ始めたバランス

東京に戻って私が産まれた。
テレビの仕事が入るようになり数年は順調で、2人は新宿御苑や花園神社に近い新宿区内藤町に部屋を借りた。
テレビ局から近いこともあっただろうけど、ミュージシャンとしての体裁があって住んだ場所だと思う。そのアパートにはデザイナーや画家など芸術家も多かったらしい。

父親が演っていたのは、JAZZやR&Bをベースにしたアメリカナイズされた音楽。ラジオからアメリカ音楽が流れ、JAZZ喫茶が流行った60年代は活躍の場も沢山あったはずだ。
でも70年代に入り、カラーテレビ普及でビジュアルや楽しさを求めるようになり、演歌や歌謡曲が主流に変わっていった。それに加えて録音技術が進んで生バンドの出番が減ったことは、父親が音楽を辞めるちょうど良い理由になったのだろう。
 私には「亜里奈達といる時間が少ないことが不満にもなった」とも言っていたけど、自分の音楽が否定される形になり、収入も減り始めて精神的にも限界だったんだと思う。
父親はバンドを解散して、企業勤めのサラリーマンになった。

諍い

でも、元々組織に属するのが嫌いで、自分一人で全て遣りたい人が会社勤めが向くはずもない。
 母親も歌手を辞めて美容師になっていたから少しの稼ぎはあっただろうけど、お金の問題から諍いが増え、この頃から父親が母親に手をあげるようにもなったらしい。
自分のバッグすら持たせない優しかった人が、髪を掴んで殴るような野蛮に豹変して、母親は全てを捨てようと決めたんだと思う。 

鏡越しに変わる姿

母親は、蒲田にあった叔母の美容院で美容師をしていた。だから私も叔母の家の住所を借りて、近くの小学校に通うことになった。
父親と住んでいたマンションには、寝起きするためだけになっていた。
 ある時から、夜になると私を叔母に預け、母はまた夜の仕事をするようになった。ホステスではなくピアノ弾き語りのBarの歌い手として。 

閉店した美容院で、化粧の色を重ねて変わっていく母親を週に何日か鏡越しに見ていた。
私が「どこにいくの?」と聞いても話を曖昧に逸らし、その代わりに〝遠くへ行きたい〟という歌を口ずさんでいた。
とても素敵な歌だけど、歌詞の〝愛する人と巡り合いたい どこか遠くへ行きたい〟は不安で、いつも泣きそうな気持ちなり、「愛する亜里奈が居るのに、ママはどっか行きたいの?」と聞いていた。
冗談なら「どっか行くかもねー」の答えも100歩譲る。でも、鏡越しに目も合さずにそう答え、私とは無縁の〝カカシ〟に会わせたり、その数ヶ月後に本当に消えた母親は、やっぱり最悪な人だった。
 あの日からずっと、母親は母親にはなれず結局〝女〟だったんだ、と思っている。

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