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偏見

先日、「VTuberやボカロを好きだと言ったら、『あぁ、そういう人なのね…』という明らかな偏見を向けられた」というツイートを見た。

人は、経験のないことに偏見を持つと、自分は強く感じる。自分もVTuberもボカロも歌い手も大好きだ。VTuberは最近、なのほりっくという事務所が気になりよく見ており、ルキロキが大好きだった。ボカロも2016年あたりからずっとできる限り追い、歌い手は特に大好きで、ウォルピスカーターさんの大ファンだ。それに新人さんもよくチェックしている。最近好きなのは綴さんだ。
話が逸れてしまった。しかしそれくらい好きだが、好きになるまでは、「ボカロ?ありえんだろ。邦ロック一択。」というサッカーボーイだった。
これの答えは“踏み入れるか否か”だった。

偏見、批判などというものは踏み入れることで払拭されるように感じる。でも、そんな全部できるほどのキャパは人にはない。

なら、肯定すればいいのか?無視すればいいのか?この疑問はやはりこの言葉により解決する。

ときとば。臨機応変。長々と記述して答えがこんなに面白くないものになってしまい、申し訳ない。
罪悪感から出す言葉があるとすれば“自分がどうしたいか”であると思う。

それは自分は後述のように感じるからである。

経験のないことに偏見を持つ人は、やらないと決めた自分を肯定するために言葉を発していると感じる。
他人がやっていることに対して肯定してあげている人は他人のために言葉を発しているのではなく、肯定してあげられている自分を肯定しているように感じる。
無視する人は、きっとこのようなことを感じることが出来ていて、言葉につまり、めんどくさくなっている自分を肯定していると感じる。
もちろん、これだけではないが、代表して、例にあげて言うとこんなところだ。

イケイケな人でいたいと思うなら、批判すればいいし、そんなのどうでもいいっていうなら肯定すればいいし、多感な自分でありたいなら無視すればいい。そう思う。

経験のないことに偏見を持つものも、その人がやってる事に対して肯定してあげる人も、

どちらも自分のために行動している。

なんて、無情で、綺麗事でできた世界なんだと自分は感じる。そんな中、みんな自分を肯定するために足掻き、苦しみ、頑張っている。そう感じる。
生きてるだけでえらい。そんな言葉はこういうところから生まれたのではないかと感じる。

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