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おむすび通信#2 音楽は自分自身を映し出す (増田達斗)

2016年のNODUS第一回目の公演において、フルートとピアノのための拙作、《悪魔的妄想》が作曲・初演されました。この頃の僕は全く心に余裕が無い状態でした。大学院に入ったものの、結局のところ自分がどこへ向かっているのかは依然として見えておらず、「東京で音楽は続けたいけれど、でもこのままでは自立して生きていける兆しがまるで見えない、どうにかしなきゃ…!」という焦りばかりがいつ何時にも先行してしまい、冷静さを欠き、何の進展もないままただ同じ所をぐるぐると堂々巡りし続けてはまたその状況に頭を悩ませ、とひたすら空回りと葛藤の日々を送っていました。その心の乱れから、世間や周囲に対して最も尖った見方をしていた時期もこの頃です。完全に一匹狼状態でしたが、後悔先に立たずです。

その様子は当時の自身の演奏・作曲スタイルにも多大に影響していました。特に演奏面においては2014~2018年辺りの演奏を振り返って聴いてみると、自分でも耳を塞ぎたくなるような酷い演奏をしており、それはそれはもう混迷を極めていました。この頃の自作品においても同様でして、余裕の無さを象徴するかの如くバイオレンスな楽想ばかりが真っ先に脳内に思い浮かんでは譜面上に所狭しと書きつけられており、楽譜は真っ黒け。若気の至りといいますか遅れてきた反抗期といいますか、特に《悪魔的妄想》に至ってはそれらが顕著に表れていて恥ずかしい限りです。

そんなこんなで当時としては大真面目に書きましたが、今見直すと所々稚拙で反省点だらけの、正直そこまで気に入っていない作品ではありますが、まあ自分史として長い目で見ればこれも人生だよな(笑)と、最近では受け入れられています。

というわけで、2016年と2020年の二つの目線からざっくりと振り返ってみます。音源は挙げたくないので割愛。文字だけでご想像ください。もう吹っ切れて自虐満載でお送りします。


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4年前、プログラムノートにこんなことを書いていました。

“21世紀は荒んでいる。自分は正しい、世の中に求められているなどとムキになって存在価値を示そうとし、多くの人が空回りしている。”

いやいや、お前が言うなよって感じです(笑)。見事なブーメランです。なんで自分のことだと気が付かなかったんだろう…とんだ恥さらしです。
しかし当時は真剣でした。つまりこの頃、何を隠そう僕自身が日々病んだ妄想をしていたことに他ならないのです。何をやっても上手くいかず、モヤモヤする毎日。それにどこかで自分の能力を過信していたのでしょう、そこでの理想と現実のギャップがこの作品を生み出す大きな原動力になったようです。

中にはこんな文章も載せていました。

“価値観の強要をする権利など誰にも持ち得ない。ただ理想に尽くし続けるのみこそが強烈な個性を放つ=それが本物の存在価値なのではないか。”

これは昔から今までずっと思っていることに間違いはありませんが、ただ《悪魔的妄想》では、あまりにも世の中を辛辣な目線で捉え過ぎました。専ら当時は未熟でその様にしか捉えられなかったのですが、それにしても喧嘩の売り過ぎでは?と言わんばかりに終始荒々しく不穏な空気と挑発的な音響が畳み掛けていきます。

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かといって過去を全否定するわけではありません。例えばこの作品に込めた「個人の中に潜む快楽に溺れる者と理想を信じ続ける者との葛藤」というドラマ性は、僕が度々考えているテーマの一つでもあります。ここではフルートが理想を信じ続ける者として現実に必死に抗う役を演じ、対してピアノはフルートを真逆の方へ引きずり込もうとする悪魔的役割に徹する、という構図を元に全体を組み立てていきました。そこから派生して、「音楽における官能性」についても僕は常々意識していることであり、そのためには謂わば必要悪としてバイオレンスな表現を欲する瞬間は今でもあります。《悪魔的妄想》では、フルートに高音域で鋭く金属質な断片を執拗に吹かせたりフラッターやブレストーン、発声奏法等を散りばめたりし、ピアノには爆弾でも投下するかのような強烈な打撃音をこれまた執拗に使用したり不協和音を何度もffで叩きつけたりなどしています。また個人的な試みとして両極端な音素材(音量、音価、テンポ、音域 … etc.)をグロテスクなまでに直接的に無秩序に配置していく中から、どのようにして音楽的持続を実現させようかということを意識しながら書きました。こういった”対比”の観点から着想を得ていくことは今にも通ずる部分が大いにありますが、この当時は色々と過激で過剰ですね。たしか響紋やレクイエム(いずれも三善晃作曲)の手法を参考にしつつ作曲した記憶がありますので、その影響もひょっとすると少しあるのかも知れません。

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また僕は”汚れていない純粋なもの”というのを核にして作曲を進めていくことがほとんどなのですが、そのモットーもこの頃から既に確認出来ます。

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しかし、やはり今であれば間違いなく先述のようなバイオレンスな音響は一部分にしか使いませんし、素材を乱暴にぶつけていくような発想も没にするでしょうし、こんな絶叫を繰り返すだけの作品は、何だか自分が自分でないようでもはや書きたくもありません。この頃の僕はどうかしていました。完全に我を失っていたなと、今だからこそ気付くことがたくさんあります。


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音楽とは不思議なものです。かつて恩師から「その人が表現する音楽から、人となりや価値観、あらゆるもの全てが滲み出てくる」と言われたことがあり、それを聞いたまだ10代で青二才の頃の自分にはその意味を一ミリも理解出来ませんでしたが、十数年越しにその意味をまざまざと実感しています。

おかげ様で今は迷宮から脱することが出来ました(と言いつつも実は2019年の下半期に入ってからなので割と最近ですね)。そして20代も終わりかけになってようやく一つの自分らしさを見つけることが出来ました。それに伴い、自身の演奏スタイルも作風も良い意味で随分と落ち着いたのをはっきりと自覚しています。世の中を穏やかに見られるようにもなりました。音楽というのは本当にその人自身の全てを映し出してしまう、鏡のようなものだなと感じます。いや鏡どころか、深層心理の隅々までもさらけ出してしまう不思議な魔力を秘めているのかも知れませんね。

紆余曲折を経て辿り着いた先は、“音楽が大好き”という最も純粋かつシンプルなものでした。随分と遠回りをしてしまったようにも感じますが、音楽を通して再び、あらゆることに目を輝かせていた頃の偽りのない自分に出会うことが出来たことを、本当に嬉しく思っています。

その節目として、僕は今年から自主企画リサイタルシリーズ《新演奏宣言》を始動させて、自身の信じる音楽の姿を自身の演奏に乗せて発信していこうと意気込んでいた矢先に、新型コロナウイルスの蔓延に伴い現在は無期限延期中となっています。現時点ではまだ開催の目処は立っておりませんが、しかし必ずやこの企画は開催致しますので、乞うご期待下さい!その時は是非大好きな音楽と共に、素敵なひと時を共有しませんか?

執筆者プロフィール:

増田達斗

愛知県出身。東京藝術大学音楽学部作曲科卒業。東京藝術大学大学院音楽研究科器楽専攻修士課程修了。現在、洗足学園音楽大学非常勤講師として教鞭を執りつつピアニストとしてソロ・室内楽の各方面において数々の演奏会に出演、幅広く演奏活動を行なっている。作曲家としてはNODUSでの活動の他、自作自演を含めた演奏会に企画・監修・出演として携わっている。
これまでに作曲を土田英介氏に、ピアノを藤城敬子、芝本容子、播本枝未子、秦はるひ、長尾洋史、渡辺健二、他各氏に師事。
https://www.facebook.com/masuda.pcom/

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次回 #3 は辻田絢菜が担当いたします(9/5更新予定)。
お楽しみに!

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