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フンザの法事に出席し、感動したのは

 2024年6月20日は、カフェを一緒に経営しているシェールさんのはとこ(祖父のきょうだいの孫)、ジア・ウル・カリームさんの2回忌の法事だった。
 ジアさんは2年前の6月16日に、カラコラムハイウェイでのバイク事故で亡くなった。27歳だった。彼は、フンザのあるギルギットバルティスタン州を代表するミュージシャンで、バイオリンや、ルバーブといったパキスタン北部地域の弦楽器の名手だった。中国の胡弓に似ている、フンザに伝わるジギニという楽器に独自のデザインを加えて改良したり、地域での音楽教育などもしていた青年で、ユーチューブなどでも、その功績が称えられている。Who was Zia Ul Karim? (youtube.com)
 僕は、直接ジアさんと会ったことはない。ただ、20日の夕方、シェールさんが、「ジアの法事に行く」というから、カフェを早々に閉めてついていくことにした。
 ジアさんの自宅は、カフェからイーグルネストの丘へ登る途中にあった。急な坂の端に車を止めてアンズや桜の木の間の小径を少し行くと、きれいに白く塗られた平屋があり、庭先でジアさんのご両親に挨拶をした。聞けば、この家は数年前に建てたばかりの新築だという。ジアさんが生きていれば、ここに住んでいた。そのことを思ってだろう、玄関入口の外壁には、銀色の文字で「ZIAS」と書かれた黒いプレートが掲げられていた。
 この場所は、アルチットの谷の奥の方にあり、両側を緩やかな稜線の丘に挟まれている。そのおかげで、ここから見る景色は、壮大な劇場にいるみたいな奥行きを生み出していて、視界のいちばん遠くにラカポシ山が見えた。僕が来たときはちょうど、夕日の光が頂付近の山肌に当たり、雪が黄金色に輝いて、うっとりするくらいきれいだった。
 庭では10人くらいの女たちがニンジンやピーマン、玉ねぎといった野菜を切っていた。隣の畑に行くと、両手を広げたくらいの大きな鍋が焚き火にかけられていて、男たちが豪快に調味料や油をぶち込みながら、ヤギ肉のシチューと、炊き込みご飯を作っていた。僕は男たちと一緒に並んで座り、近くに実っているサクランボを食べながら、赤く、パチパチとはぜる炭を眺めていた。
 すっかり日が暮れるとともに、親戚や近所の住人がわらわらと訪問してきて、家には老若男女100人くらいが集まった。ヤギ肉のシチュー、茶色く炒った玉ねぎが入った炊き込みご飯、鶏肉のカレー、パスタ入りのサラダが準備された。男たちはスマホのライトで鍋を照らしながら、カレーやご飯を大皿に盛り付け、弔問客が集まる家へと運んで行った。僕も家に行きご飯を食べるよう勧められたが、大鍋の近くで作業を見るのが楽しかったので、そこにとどまることにした。
盛り付け作業がひと段落し、僕たちは鍋の近くで食事をとった。晴れていれば、きれいな月が出ていただろうけど、あいにく空は厚い雲に覆われ辺りは真っ暗。自分の皿の上もほとんど見えなかった。ごろりと存在感のある肉塊をつまんでかじった。ほろり骨から肉がほどけ落ち、香辛料と煮込んだトマト、玉ねぎの甘味が絡んだヤギ肉のうまみが広がった。口いっぱいにほおばる大きな肉塊でもやわらかく、二、三回噛むだけで嚙み切ることができた。ご飯と一緒に一皿平らげれば、お腹がいっぱいになり、心も満たされた。周りの男たちも暗くて顔は見えないが、穏やかに、楽しげに、ブルシャスキー語でおしゃべりをしている。
 やがて、シェールさんに呼ばれ、僕は家の中へ入った。ここからが法事の本番という。新築で、壁が白く塗られた明るい家の中、玄関を入ってすぐの大きな壁には、足元から天井まであるジアさんの大きなポスターが貼ってあった。暗闇の中でスポットライトが当たる椅子に座り、少し斜め上を見上げ、ジギニを弓で奏でている印象的なポートレイトだ。ここでも彼が、彼の家族や友人たちにとって、本当にかけがえのない誇りであり、ずっと愛しい存在であることが感じられた。
 広間には、一番奥に、窓を背にしてジアさんの父親と男親族が小さな椅子に腰かけてこちらを向いており、その手前に、ルバーブや太鼓をもった4、5人の若者が同じ方向を向いて並び、床に座っていた。男親族とこの音楽隊(「音楽隊」というのには、少し躊躇するのだけれど、ここではそう呼ぶことにする。理由は後述する)と向き合うように、70人ほどの人が並んで床に座っていた。この新築の家のホールは、さながら小さなコンサート会場といった趣になっていた。
 ざわめく観衆のあいだを貫くように、突然、幼い女の子の高い歌声がホールに響き、みんなはおしゃべりを止めた。重低音の太鼓と、まさに僕にとってみれば異国情緒漂う、ルバーブの調べが響いた。歌声と伴奏は、リズムも音階も、僕がこれまで聞いてきた音楽とは全く違っていた。明るさと寂しさが同居しているような、不思議な調べだった。
どう聞いてみても、慣れ親しんだ音楽にあるような3拍子、4拍子、といった拍子をつかむことができない。速さも一定でなく、同じ旋律が繰り返されているようにも聞こえない。「サビ」みたいな盛り上がる個所もなければ、盛り下がる個所もない。ある一定の範囲内でゆるやかに、かつ不規則に奏でられた音だ。それでいて、歌声とルバーブと太鼓は、いつもなんとなく一体感を持っているのだから、なおさら不思議に聞こえた。
 その旋律を聞く人たちも、不規則だった。皆、音の流れに体をゆだねているのだけれど、大きく体を揺らす人もいれば、小さい人もいる、まったく動かない人もいる。揺れる速度が速い人も、遅い人もいる。観衆の体の揺れは、リズムも揺れ幅も、てんでばらばらに見えた。女の子の歌声がやがて止み、また別の音楽が始まった。こちらも同様に、リズムも音階も予測不可能に思えるのだけど、音楽隊の4人の男たちはそれぞれ別パートを歌っているようで、結果、不規則な音楽の中にハーモニーが生まれているのだと思った。
 僕はその音楽を聴きながら、上に書いてきたようなことをしばらく考えていた。それは、僕が特に音楽に造詣が深いからではなく、ただあまりにも今まで聞いたことのある音楽と違ったからだ。この不規則な調べを聞きながら、素人ながらその不規則さについて考察していたのだけど、はたとあることに気が付いた。この2曲目、全然終わらないのだ。時計がないから、何分たったのかはわからないけど、ずいぶんと長いし、全然終わる気配がない。不規則とはいえ、ずっと似たような調べがゆるゆる、延々と続く。それでいて、どこか心地よく、飽きがこないのは、やっぱりリズムも音階も不規則だから?
 いくら珍しいとはいえ、その時間が長すぎて素人耳でこれ以上旋律や拍子を云々考察することができなくなった僕は、もうただぼーっとするしかなかった。ゆるゆるとした弦楽器と男たちの合唱がずっと、ずーっと続いた。
気づけば僕は、部屋の壁際のソファに座った、あるおばあさんの顔をながめていた。赤や黒のフンザ刺繡に銀飾りを垂らした小さな帽子を頭に乗せたおばあさんは、ずっと目をつぶっていた。はじめ、彼女を見たときは、つらそうな表情に見えた。ジアさんとおばあさんとの関係は分からないが、ほんとうの孫だったか、彼を孫のように可愛がっていたことに違いはなかった。少し眉間にしわを寄せ、感情の重みを受け止めているような、そんな表情だ。ジアの奏でる楽器の音、ジアと穏やかに話し合ったことを思い出していた。
延々と続く、この旋律は、次第にこの家で行われている法事の場を、俗の世界から聖なる世界へと変えていくような、神聖さをこの場に与える効果があったのだと思う。ゆるやかでとても長い坂を、みんなでゆっくりと上っていくように。すべては神に委ねられている、といった、心地よさもある不思議な一体感が、部屋の中に生まれつつあった。僕自身が、そのことを感じ始めたころ、おばあさんの頬がきらりと光った。ほんの一粒、二粒の涙だった。
 僕は、自分の飼い猫のふくのことを思い出していた。ふくは、僕にとって娘のようでも、恋人のようでもある、大切な猫だった。ふくは、2022年8月10日に、交通事故で亡くなった。ジアさんが交通事故で亡くなった数か月後のことだ。その時僕は、いままでで一番悲しい経験をした。猫と人間はちがう、という人がいるかもしれないけれど、そんなことはない。ぼくは、ジアさんを想うおばあさんの涙を見て、ふくのことを思い出さずにはいられず、同時に、交通事故で大切な人を喪うというその喪失に深く同情していた。
 長くゆったりと続く旋律は、僕たちに悲しみを思い出させ、次に、彼や彼女と出会い、共に人生のひと時を過ごしたことへの歓びを感じさせていった。ホールにいる多くの人たちが、泣きながら微笑んでいた。悲しいんだけど、愛おしい気持ちをみんなで共有していたのだった。こうして、大切な存在を失った人たちは、年の節目ごとにあつまり、少しずつ悲しみを感謝に変えていっている。ぼくは、法事の本質をここに見た気がした。
さて、ここでこの不思議な旋律、歌と伴奏と、「音楽」について述べておきたいと思う。シェールさんは、この歌と伴奏は「音楽」ではないと強調していた。外部の僕から見れば、弦楽器も太鼓も歌もあるから、「音楽」としか見えないんだけれども。ただ、シェールさんの言わんとしていることはわかる。歌や踊りや楽器が大好きなフンザの人にとって、「音楽」とは楽しいものであり、法事の場で奏でられる旋律は、それとは明確に区別されている、ということなのだ。
後になって気が付いたのだけど、あの不思議な旋律は、ぼくの祖父が亡くなった後、祖母が仏壇を前によく唱えていた読経に似ていると思った。もちろん、読経は楽器や太鼓は使わないが、鈴はつかう(木魚を使うこともある)。祖母が唱えていた読経とフンザのあの旋律は、リズムも音階も不規則という点も同じだし、その長さも似ている。どちらも、長くゆるやかな音を時間をかけて出し続けることで、故人のことを悼み、やがてその悲しみが昇華されていくようにできていた。このことはたぶん、人類に普遍的なことなんじゃないだろうか。きっと世界中、ほかの地域でも似たように大切な人を悼み、やり場のない悲しみを解くために、音が使われているのだろう。

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