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 フンザのゆるゆると、葛藤。

 僕がフンザに住んで一番驚いたのは、ここに住む人たちの、「ゆるゆる」なところだ。おおらか、ということもできるけれど、「ゆるゆる」のほうが、しっくりくる。何がゆるゆるなのかと言えば、何もかも。日本人の僕から見れば、時間に対する感覚も仕事のやり方も、人との付き合いや暮らしの仕方、宗教のとらえ方も。すべてゆるゆるなのに、社会がそれなりにうまく回り、見る限りほとんどの人が幸せに生きているのも不思議だ。
フンザに来る旅人は、そんな人々のゆるゆるした姿に魅力を感じる。通りを歩けば、カラフルな民族衣装を着たおばちゃんたちが、電線に並ぶムクドリみたいに路肩に座り、ぺちゃくちゃおしゃべりをしていて、その傍らではおじいさんが、ぽろんぽろんと民族楽器を奏でている。背中に柴を背負ったおばさんが牛と一緒に歩いていて、通りすがりに、アンズを手渡してくれる。大人の男たちも、あくせく働く人は一人もいない。しょっちゅう店番や土木作業の手を休めてお茶を飲んだり、近くの広場のクリケットを見物したり、煙草をふかしたりしている。通りには、たくさんの老若男女が、何をするでもなく、文字通りうろうろしている。
 雄大で美しい山のふもとに、こんなゆるゆるとした村があることは旅人にとって大きな魅力であり、僕も旅行者としてフンザに来ていた時にはそれを素晴らしく思っていた。今もそれは素晴らしいと思うけど、しかし、ここに住んで仕事を始めると、そんな雰囲気を手放しで称賛できない時もある。
 料理の仕込みとか大工仕事とかを頼んでも、延々とそれを始める気配がなかったり、始まってもこちらが望むクオリティからは程遠く、仕上がりがおおざっぱ(つまり雑)だったりする。カフェの電気系統を直してもらおうと電気屋さんを呼べば、手ぶらでやってきて、「ペンチとドライバーはある?」と聞いてくる。直してもらった後は、電線やらねじやらがその辺に散らばっていて、僕が掃除をしなければならない。
 簡単な棚なんかを大工さんに注文するなら、少なくとも10回くらいは大工さんの元に通い、控えめに催促する必要がある。「いつできる?」という質問は愚問だ。「明日には」、とか「来週には」、とかそれらしい答えは返ってくるけど、その通り完成することはまずない。お金をたくさん払えば早く、クオリティ高くやってくれるのでは?と思い、ある時、「たくさん払うから頑張ってよ」と大工さんに提案したこともあったが、「お金はべつにいらないよ」といわれた。
 フンザの人たちのゆるゆるした雰囲気は、この土地の豊かさから来ているのだと思う。皆が自分の土地と家を持ち、最低限の野菜と家畜を育てている。庭では、ほっておいてもアンズやサクランボやクルミやリンゴが山のように生る。町で売っているものは限られているから、スマホやバイクを買えば、ほかにお金の使い道もあまりない。大家族で親戚含め十数人で暮らしている家庭が多いから、その中の一人、二人が出稼ぎに行けば十分に幸せな暮らしができる。共同体のつながりが強く、みな優しいから、何かあればすぐに助け合う。大してお金がなくても、あくせく働かずとも十分幸せに生きていくことができるのが、フンザなのだ。ほんとうに、すばらしいことだ。
 とは言え、僕は日本から来た人間。毎日、少しでも自分の作ったカフェのクオリティを高め、お客さんにいいサービスを提供したい。そうした考えが、どうしても、フンザのゆるゆると相いれないと感じることがある。フンザのゆるゆるとカフェの発展をどう両立すればいいのか?正直、ぜんぜんわからない。

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