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読書における中動態――國分功一郎『中動態の世界』を読んで➀

 「本の読み方」がわからない。なので「本の読み方」が書いてある本を読む。その「本の読み方」通りにやってみるものの、どこかしっくりこない。なので別の「本の読み方」の本を探すか、その「本の読み方」の本を読み直す。その「本の読み方」を人に説明できるくらい理解するまで……

 こんな堂々巡り、悪循環をここ数年繰り返してきた。読書術の新刊を書店で見つけると、どうしても期待してしまうのだ。この本こそが、「本の読み方」の悩みを解決してくれるのではないか、と。しかしある日、このままではいつまで経っても本当に読みたい本を読むことができないまま人生を終える、という絶望的な理解に行き着き、今はある程度の折り合いをつけて本を読むことができている。(個人的にそれは、平野啓一郎著『本の読み方』と永田希著『積読こそが完全な読書術である』、以上2冊のおかげであると思っている。)

 最近は新しく読書術の本を探し求めることもなくなったが、書店の「読書術」コーナーが充実しているように、「本の読み方」を悩んでいる人は多いのだと思う。そんななかで気になったのが、文学研究者である小川公代氏のツイートである。

 「能動的に本を読む」ことの大切さは分かる。「本に読まれる」とは、受動的に読むこと、すなわち、本の内容を疑うことなく呑み込んでしまうことで、一方「能動的な読書」とは、自分の頭で考えながら、時には内容や著者の正当性を疑いながら読むことで、それこそが本を読む上で欠かせない姿勢であると、多くの「読書術」の本でも繰り返し言われていることである。

 ところがどっこい「中動態」である。読書の能動態「読む」は分かる。受動態の「読まれる」も分かる。でも読書の「中動態」とは何なのか。「読む」でも「読まれる」でもない「読書」なんて存在するのか。そんな問いとともに、今回読んだのが國分功一郎著『中動態の世界――意志と責任の考古学』である。

 本書の内容を要約してまとめるつもりも、「中動態」の概念を説明するつもりもないし、できる気もしないのだが、大事な点として、能動態と受動態の対立ではなく、かつては能動態と中動態の区別が存在し、「主語が過程の外にあるか内にあるかが問題」(p88)だったということである。著者は、能動とも受動とも言い切れないもの(例えばカツアゲ)が存在することに言及し、中動態で捉えることにその活路を見出す。

 それでは「中動態は、主語が過程の内にある」という理解の下、読書における「中動態」とは何か考えたい。主語を「私(本を読む人)」として、過程とは「読書という行為あるいは時間そのもの」である。その過程の内に「私(主語)」がある……整理したところで、これだけでは分かりにくい。そこで再び小川氏のツイートを参考にしたい。

 小川氏は「読書でワクワクする秘訣」として「中動態」を挙げている。すなわち、「私(主語)が読書(過程)の内にある」とワクワクする、逆を言えば、「私(主語)が読書(過程)の外にある」とワクワクしない、ということになる。むしろ後者を先に理解した方が良さそうである。

 「私(主語)が読書(過程)の外にある」読書とは、例えば会社あるいは大学で読むことを指定されたものの興味が沸かないこと、文字は読んでいるものの仕事や家庭など他の事が気になって内容が頭に入ってこないこと、世間で流行しているから買ったものの読んだらつまらなかったこと、だろうか。確かにこれらはワクワクしない読書と言える。

 そして「私(主語)が読書(過程)の内にある」読書とは、例えばニュースで外国の歴史に興味が沸いてそれに関する本を読むこと、自分と同じような悩みを抱える小説の登場人物に感情移入すること、ケアに最大の関心(テーマ)があってそれに関する本を読むこと。これらがワクワクする読書であり、読書における「中動態」ということになる。

 「中動態」の概念をもっと腹落ちさせないと、なんだか「中動態」を持ち出すたびにふわっとした理解になってしまうが、著者が本書の終盤でスピノザの哲学を用いてカツアゲを説明したように、能動か受動かという行為の「方向」ではなく「質」の差として捉えればいいのだと思う。

 例えば同じ1時間の読書(過程)でも、興味がなかったり違うことを考えたりしていれば(すなわち「私」が読書という過程の「外」)、本の内容も頭に入ってこないし、退屈な時間となる。一方で、自身の関心に沿って読んだり内容と自身の境遇が重なったりすれば(すなわち「私」が読書という過程の「内」)、本の内容も頭に入ってくるし、楽しい時間となる。

 個人的な経験を言えば、学生の頃に介護に関する本を読んでも、いまいち実感が沸かず、それほど面白くなかった。しかし介護の現場で働き始めてから読み返すと、自身の経験や考えと重ね合わせられるので面白く、同じ本でもその読書の「質」はグッと高まったのを実感した。

 現在、文法だけでなく思考にまで「能動/受動」の対立が根付いてしまっている以上、「中動態」の世界を生きることはそう簡単ではないだろう。しかし大事なのは、それを自覚することだ。今回取り上げた「読書」に限らず、仕事やプライベートのあらゆる行為において、「中動態」の世界で生きようとすること。それが大きくは人生の「質」を高めるのであろうと思うし、次回考察したい「ケア」においても重要な価値を提供してくれるのだと思う。

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